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      <title>コラムチャンネル</title>
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         <title>時事問題（37）心の健康とはなにか</title>
         <description><![CDATA[<img alt="hito_b.jpg" src="http://www.epl.co.jp/column/hito_b.jpg" width="60" height="64" />


―心の不健康を防ぐために―

現代社会で最も代表的な問題は、精神健康と言われています。企業や官庁などで長期欠勤の理由は、戦後の結核や成人病から心の不健康へと移り変りました。この不健康は単に個人の問題にとどまらず、家庭の不幸、職場の軋しみなど種々の社会問題を引き起します。日本の心象風景はバブル崩壊後、雇用慣行が崩れる中で心の不健康が中高年齢層に増大しましたが、近年抑うつ状態に陥る人が世界的に10代の子どもまで広がっています。

現代の管理社会の中で、いやし難いストレスを抱え込む代表的な現代病を3つ紹介します。
（1）“燃え尽き症候群”
今まで1つのものごとに没頭していた人が、身体的、情緒的な疲労により、無気力や自己嫌悪、仕事拒否になることを言います。一生懸命に仕事をするやる気はあるものの、仕事上の隘路にぶつかったり、多忙のため時間に追われ、体力を消耗すると勤労意欲が失せて職場に適応できなくなる人たちです。
（2）“無気力症候群”
若年成人に見られるもので、職場環境に適応できず失敗を繰り返して何ごとにも意欲が持てなくなり、無気力で非生産的な生活を送ります。その原因は、心理的ストレス（心で起きる心の病気である神経症）です。
（3）“コンピュータ過剰適応型”
コンピュータを使って仕事をしている中に、機械と人間との間にマン・マシン・システムが出来上り、人はコンピュータに引っ張られます。ものごとを黒か白かというようにデジタル思考になり、灰色の部分が分からなくなります。また対外交渉は人と人との関係ですが、苦手になりその結果、無気力な状態になって人間関係に適応しにくくなります。

うつ病とは精神活動の病的な落ち込みにより、悲哀感と絶望感に支配され、日常生活を送るのが困難なレベルまで達することと言われています。余談乍ら、英語ではうつ病をDEPRESSIONと表現しますが、経済の不況と同義語です。
専門書を読むと、現代人のうつ病は、うつが表面化し何らの契機があって繰り返し起きるようです。すなわち内因性か心因性のものかの区別が定かでないケースが増えているとのことです。
出社拒否は、上からの締めつけと下からのつき上げによって生じる軋轢が高じて出てくる症状で、本人は出社する気持があっても腹痛、頭痛を起しズルズルと休み続けて欠勤し、出社を拒否しますが、子どもたちの登校拒否と似た症状です。肉体面では食欲不振、胃腸障害など、精神面では気力減退、考えが散漫、対人恐怖、決断力がなくなるほどの症状です。これに関連して、20年前にカナダの精神科医クレイルは、“仮面性うつ病”を発表しました。これは、自律神経系の症状である心気症状、体感異常、便秘や立ちくらみなどの症状が目立つ特徴です。

心の病気への対策は、人生の始まりである乳児期からのスタートにあります。何よりも両親の愛情と子どもの人格への尊重が必要であり、乳児期に母子のスキンシップを経て、親離れ、子離れして子どもの自立性を育てることにあります。その後少年期にかけて過保護や干渉せず、成人に向けての自主性を育てることです。人生には就職、結婚、退職といった人生の転機があり、気配りして発病を防ぐこと、気負いや不安を抱かないようにすることを“危機介入”と言います。
心の不健康はよく眠れず、気分もすぐれず、仕事にもスランプがあり、対人関係がうっとおしいという崩れから始まります。現代医学は症状を抑える対症療法だけではなく、病気の根元を押える原因的対症療法までに進歩しています。うつ病の場合、家族や周辺の人たちが根性論で本人を励ましすぎるのは禁物です。むしろ休養をとって生活のリズムを回復させ、職場の集団生活に適応できるように早期発見、早期治療を医療機関に託すのが賢明策です。
精神分析学の創始者フロイトが「精神的に健康な人間にできることは、愛することと働くことである。」と論及しています。すなわち①精神的に障害にかかっていない。②甚だしい不安や苦悩がない。③現実社会に適応している。④自分の生きがいを持つ。ということではないでしょうか。

競争が激しく、変動も激しい管理社会に適用するために、自己形成することを“性格防衛”と言いますが、適応問題は非常に難しく、人間が社会に適応することによって、逆に人間性を失うこともあるからです。自分の感情を押し殺して、あるいは感情を読みとれないままに一生懸命に働いて、その間にストレスが身体を蝕み心身症（心で起きる身体の病気）を引き起こすこともあります。
正に精神医学は、自然科学と哲学の接点になる人間科学たる所以です。

村井　徹]]></description>
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         <pubDate>Fri, 10 Feb 2012 09:00:25 +0900</pubDate>
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         <title>2012年を迎えて</title>
         <description>リーダーの役割り―挑戦こそが事始め

企業に生命力がある限り、健康状態が露見します。活気があったりなかったりします。特に厄介なことは、組織は同質化しやすく内部で異常なことが起きても放置されます。その要因には、組織・チームと社員自身に次の不備があるためです。
（１）外部状況が変わっても、過去の成功パターンに依存している。
（２）不測事態が発生しても、自分の過去の失敗パターンを避ければよいとの思いで、思考を停止している。
（３）他人の成功パターンを認知しても、失敗パターンに関心がなく分析・応用ができない。
（４）新しい解決策などないと逃避して、問題・課題の解決に取組まない。

次に、リーダーが組織・チームを活性化するために次の4つの施策が重要です。
（１）組織・チームが淀まず革新的であるために、異能（多能）な人を登用して仕事を段階的に委ねる。
（２）組織目標（値）に向けて、“仕事をつくれる人”を選別して実行させる。
（３）自分の独自な考え方（独断・暴走ではない）で実行させ、成果を評価して処遇する。
（４）実行できる人を孤立させず活動できるよう、組織化する。

低成長・低労働生産性である日本では、マネジメントは自らの意志で自分の言葉により主張できる自立型が必要です。ビジネスには、リアリズムのない人は不向きです。
人は出来ることを求めますが、新しいこと、出来ないことへの取組みが大切です。自分にとっても、企業にとっても成長とは、出来なかったことが出来るようになることにあります。2年前に掲げた「挑戦」です。
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         <pubDate>Thu, 05 Jan 2012 09:00:00 +0900</pubDate>
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         <title>時事問題（36）羞恥心とはなにか</title>
         <description><![CDATA[<img alt="hito_b.jpg" src="http://www.epl.co.jp/column/hito_b.jpg" width="60" height="64" />


―社会心理学からのアプローチ―

文化としての日本人論は、1948年に米国の文化人類学者であったベネディクト著『菊と刀』が敗戦直後の原典でした。これは、日本人の精神構造の分析で“義理”と“恥”を特質化しました。その後日本人の心と恥について西洋比較文化論として、多数の著書や論文が発表されました。
恥や羞恥心について思い巡らすと、旧約聖書のアダムとイブにも恥がでてきますし、西洋文化圏と交流のない少数民族にも恥の感情があります。しかし日本では1990年代後半から街中で見られる様々な行為―電車内や道端に座る、電車内で化粧や飲食するなどーすなわち逸脱した行動が、どうして日常見られるようになったかを社会心理学の視点から読み解くのが今日のテーマです。

江戸時代、国民の80%が農耕生活であり、代々受け継いできた田畑を守り、人と人との親密さを決定づけたのは、血縁と地縁でした。いわゆる身内関係であり互いに支え合っていました。旅に出れば他人の世界であり“旅の恥はかき捨て”と言うように他人を気にする必要は低く必要も感じなかったようです。日本人が恥ずかしさを感じる相手は、身内と他人の間に依存する中間的な世間でした。すなわち、同じ村落に住む人々など地域社会との関係であり、習慣・ルールが成立して継承されていました。
江戸時代から明治期に入って、社会秩序を乱す行為は批判を浴び村八分が増えました。このように世間の目を気にする動向は、現代でも社会の根底を支えて“世間の常識”として生きづいています。しかし一方では、近所と仲良くする考えが薄れて、気遣う感性が乏しくなりました。失態を見られても実害はなく、人の視線に無頓着です。大勢の人々が集う公共空間で好きなように振舞い、ジベタリアンも地域社会の他人化の影響です。世間の基準に代って“自分本位の基準”すなわち他人への配慮ではなく、自分の利益を回避することを目的とし、自分の感性や利害を優先し自分の利益につながる他者を利用します。正に無関係な他人同士です。羞恥心は個人が社会から排除されないための仕組みです。何を恥ずかしいと感じるかは、個人がどの集団に留まりたいかによって変わります。

唯一神が人の心の中で占めるキリスト教やイスラム教の世界では、宗教的な規範を人々が共有しています。規範に背けば社会の批判は免れません。世間の目ではなく神の目を意識します。従って、彼らは内面的な罪や恥の意識を育んでいます。一方、日本人には唯一神がなく、基本的な社会ルールは人間関係の中でつくられます。そのために、その時代や社会情勢によって規範が変化します。恥しさは環境要因によって大きく影響され、どの程度の恥らしさを感じるかは、自分を評価する人との関係によって決まります。つまり、相手次第で羞恥心の働きは変化します。今の街中の状況を見るにつけ、本来恥意識を規定した地域・共同体社会の影響力は薄れています。ジベタリアンが現れる公共空間は、他人同士が集う場所となり、周囲の視線を気にしない自分本位の基準の台頭です。特に共同体社会と無縁なあるいは少ない若年層にとって、無関係な他者の中で羞恥心という社会的警報装置が起動せず、彼らの基準に則っているからです。1990年代以前では、親は社内で騒ぐ子どもを“そんなことをしていると、みんなに笑われるよ”と諭しました。嘲笑という親も恥をかきたくないとの思いで悪さをやめさせました。しかし今や“そんなことをしていると、誰かに怒鳴られるよ”と子どもに注意します。このことは大声を出したり、怖そうな人が場を制するという他人社会の論理で、恥しさを覚えたのではなく納得を強制する決め方です。欧米では“そんなことをしていると、みんなに迷惑ですよ”と注意します。これは善悪が判断基準です。

確かに、私たちは新たな共同体である職場、業界、政治経済ネットワークや最近のようにウェブ社会を構築しています。この新しい世間に属していれば生きていけます。しかしウェブは、誰かと繋がっていても顔を見合わせる機会がありません。見知らぬ人である他者の視線を気にする必要がなく、羞恥心の領域は特定の人間関係という狭い自分の領域に集約されます。他者との関係は、気が向いたときだけパソコンでチャットするだけでは狭くなります。若年層の心の構造は、他者からどう見られるかを感知するセンサーが働かず、見ている私たち側が不快に思ったり批評しようが無関心です。彼らが恥しいと感じるのは、若者らしくない姿や行動です。若さの証明として成人することに嫌悪感があり、流行への関心も高く自己アピール欲求も強いようです。若さを失うことは、価値観を共有している仲間から疎まれ仲間はずれされる危機をもち、彼らの羞恥心は同年代の仲間に対して強く作動します。
私たちは日々自分に気を配って生活しています。仕事がうまくいったり、人に褒められたりすれば、自尊心は高まり叱られれば自己嫌悪に陥ります。外界の変化だけではなく、自分の姿に対して敏感に反映します。羞恥心は社会で生きていく装置であり、この装置は万国共通です。

次に中高年層の羞恥心に言及すると、“今更、恥しいことなどない”“この期に及んで格好をつけない”と言います。確かに他者から自分がどう思われるかを気にするのは、思春期から青年期がピークで他者からの評価や羞恥心も活発に作動します。
一般的に、年齢を重ねて社会の中で自分の居場所が定まれば、さほど人目を気にせず羞恥心が衰えるという俗説があります。
最近の調査では、年齢が高いほど嘘をついたり、約束を破ったりといった社会的信頼を損う行為について羞恥心が増すことが判りました。男女共、格好の悪い失態について若い人よりも敏感です。その理由は、これまで培ってきた人間関係を壊してしまう恐れがあるためです。高齢者になればなるほど、社会的信用や品性といったイメージを守ります。
自分の利益と一致しない人たちは、他人として位置づけて、利益を共有できる相手だけがパートナーになると、狭い世間になります。欧米人は良心に照らして自分の行動を抑制しますが、日本人は他者の目や顔色を気遣って自分を律します。
現代の日本社会は、伝統的な世間の崩壊と他人領域の拡大という様相です。職場でも隣は何する人ぞという“個職化”が進んでいます。公共空間での逸脱行為は個人の問題ではなく、社会と密接に関わる現象です。老若男女に見られる公徳心の欠如は、羞恥心が働かない心性が作動しています。無神経な高慢さは人としての羞恥心がないためです。

村井　徹
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         <pubDate>Fri, 09 Dec 2011 09:00:00 +0900</pubDate>
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         <title>時事問題（35）依存性が強い方ですか</title>
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―2つの行動特徴を探る―

現代社会では数多くの外部情報に翻弄されたり、他人の暗示にかかり易く、自分自身の判断による自己管理が難しくなっていることを当コラムNo.2で提起しました。また別のコラムにてわが国の対人関係の行動は「和」が重視され、他人の気持に敏感で他人に合わせようとする依存傾向があることを指摘しました。これらの問題は心理学からみれば“自主性と依存性”です。今回は、この2つの行動特徴を考察します。

欧米社会では自立性がよしとされ、依存性が高い人は受け身、無力な人というイメージが強くあります。一方、わが国では依存性が高く、1人で決められず周りの様子を伺う自信欠乏があります。これは対人関係上、他人が自分をどう思っているかの感受性も強く、他人に調子を合わせて群れる社会です。また権威に対する弱さがあり、“専門書にそう書いてある”“テレビや新聞でこう言っていた”“○○という意見が多数”といった理由で物ごとを選びます。自分で考えた結論よりも、権威者の意見や他人の考えで物ごとを決めます。一般に日本人は“普通”という言葉に抵抗なく反応して“せめて人並み”“普通の○○でありたい”と表現しますが、これも依存性でしょう。これらのことから努力や独力を怠り、年齢相応の社会的スキルが身に付かなくなる恐れもあり、誰かが助けてくれる誘惑にかられます。また企業でも“前例によれば”“上司の話によれば”“○○という方向に固まっているので”と間接表現が好んで多用され、“自分の意見は○○だ”という直接表現を避けます。従って、物ごとが決まるときは“なんとなくそうなった”“誰が決めたか”が曖昧になります。この空気のような依存性は群れて周囲の行動を伺い、互いに調子を合わせた行動になります。わが国は依存性を許容する社会であっても、近年の成果・実績主義の人事政策からみて、仕事のレベルに応じてある程度の自立性がないと克服できない事態があります。控え目で自己主張もなく、他人より劣った立場に甘んじて仕事をこなす没個性的な人として生きることは、淋しい感じがします。確かにバブル期前の伝統的な対人関係は、相手方がして欲しいことを的確に見抜いて対応すると、気がつく人と高く評価されました。つまり、気まずさが生じないよう気配りできる対人関係のスキルを重視しました。

どうして日本人は依存性の強い社会なのか。その理由は、思春期・青春期に他人に世話してもらえる子どものような立場でいた人が多かったためです。すなわち、子ども時代に自力で挑戦する機会を奪われて健全な能力が育っていません。大人になっても恐怖感や劣等感をもち自ら選択し、その結果責任を負うことに怖じ気ついてしまいます。当今気になることは、子どもは教えられないと自分の頭で考えないようです。“まだ習っていない”という依存性が強く、誰かに教わってそれを真似たり、参考にすることが習慣化して考える力が育ちません。まして受け身の姿勢で教われば、集中力、思考力や気力を総合的に身に付けるのは難しい限りです。
人には様々なタイプがいます。“教わって”伸びる人、“教わらずに自分で”伸びる人、また“教わってさらに自分で”伸びる人もいます。
“教えてもらおう”という「知的依存心」が身に付いてしまった人は、自力で考えることをしなくなります。このように“教える”ことによる最大のリスクは、教わる側が口を開けて待つひな鳥のような依存心を身に付けてしまうことです。What型教育は知識差を利用して“教える”、Why型教育は思考回路を刺激して“考えさせる”です。日本のビジネス界には“WhyなきWhat病”が蔓延しています。Whatとは、実際に起きている事象や目に見える状況そのものであり、Whyとは、そのための理由や真の原因、あるいは物ごとの本質といったものです。例えば、実態が変化して適しないのに“規則通り”に行動するしかできないマニュアル人間、取引先から言われた要求をそのまま聞くだけの御用聞き営業部員、以前やってみたが失敗したという理由で部下の提案を一蹴する上司、言われたことだけこなす気の利かない部下、メッセージのない資料や魂のこもっていないありふれた企画書等々、WhyなきWhat病の典型です。

自主性は、共感と温かみだけの家族では芽生えずらくなり、成人になっても親元で寄生的な生活を送るパラサイトの生き方では不可能です。このことは、当コラムNo.6で家族とは社会の縮図であることを指摘しました。
人間社会の伝統を紐解けば、親が先行先代の価値観を体現し、子どもが青年に達して先代世代のものに対立・修正を加えて受容していく大人社会の再生産でした。しかし今や大人が子どもの顔色を伺い、機嫌をとったり、若者世代にすり寄ったり、若者のマネに興じたりして調子を合わせた行動をとり、依存性の強い社会の再生産になっています。

それではどうすればいいのか。依存性と自立性を場に応じて程良くバランスさせる感覚をもつことでしょう。前者は他人に気配りしたり、自分が経験する範囲を狭く閉ざしたり、不快な現実から目をそむけますが、後者は他人と調子を合わせるよりも、自己責任をもって自分のことは自分で決めます。例えば、上司に指示された通りに仕事をすれば、叱られません。しかし、上司の指示を自分で再考し、知恵を出して仕事をすれば、自分らしい個性が育ち繰り返しにより、自立性が芽生えます。自分の責任で行動するためには、“なぜ”“どうすれば”と考える習慣を身に付けるのが第一歩です。
最近の研究によれば、依存性の強い人にはうつの度合も強くなると指摘されています。特に他人頼みの人は対人関係でストレスを感じ、自責が高まります。その改善として1人で何もできない場合、他人と物ごとを一緒にやる協力姿勢があれば、欠点を利点と捉え、自分の低い自己評価を見直して、自信を一歩づつつけていく解決法があります。
最後に強調しておきたいことは、社会に出ても自分のダメさを強調して他人から期待されたり、責任を引き受けたりすることを避ける若者が多くなっています。この風潮は、同質なものへの接触は好むものの、異質との接触は先細りとなり、気の合う同世代の人たちとしか交流できない怖さがあります。このことも自立性のなさと関連していることです。もう1つ付け加えれば、自分から何かをやるよりは、誰かが分かりやすい解決策を与えてくれるのを待つ依存的な状況も強まっています。
括れば、自立している人とは、独りで生きることではなく、適切な依存ができ、そのことを自覚している人です。

村井　徹]]></description>
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         <pubDate>Fri, 07 Oct 2011 09:00:00 +0900</pubDate>
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         <title>時事問題（34）弱者とはだれですか</title>
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―既成概念からの脱却―

最近、弱者の視点に立った政治を、と声高らかに叫ばれています。世の中には障害を抱え、職を得ようにも見つからない人達がいます。また一家の柱が急病になり、家計が困窮状況に陥ったりする人達もいます。そうした人々に手を差し伸べ子どもに学ぶ機会を与えたり、就職の機会を設けるのは国・自治体のセーフネットとして当然です。
しかし自助努力もしない生業にも就かず、何とかしてくれ、社会が悪いと言う人までを「弱者」として括っていいのか疑問が残ります。“強きを挫き、弱さを助ける”は昔からよく使われるフレーズですが、この言葉には強さが悪であるという響きがあります。当今、弱者の目線・立場・政策論争がマスコミで頻繁に登場します。弱者と言えば、正論になり、反論すれば、“上からの目線”と返され、傲慢不遜な人のように思われます。
戦後の民主主義とその政治課題は、大雑把に言って「弱者」をいかに救うかということに焦点をあてています。“弱者に優しい政治”“もっと福祉に充実”“差別のない明るい平等社会”などというスローガンは、それ自体として何人も異議を唱えることができない理想的な命題です。「弱者」とはだれか、それは老人であり、子どもであり、障害者であり、差別待遇を受けている在日外国人であり、被差別部落出身者であり、女性であると一見自明のように言われています。
政治課題には、国民に充実した幸福な生き方を実現するにはどうすればよいかを考えますが、様々な人間の幸・不幸を政治課題として掬いあげる場合、人間のあり様を極めて単純に既成概念で社会的分類化します。そこには杜撰さが伴い、「弱者－強者」の価値判断を張りつけ、救う側の強者と救われる弱者という分類が生まれ、古い既成概念が都合よく横行します。

最初に取り上げる話題は、高齢社会の危機です。
少子化の影響もあって、2人が1人の老人を養わなければならない時代がやってくるという説が喧伝されています。しかし、この意識には統計数字の枠のとり方や読み方に粗雑さが関与しています。15歳以上65歳未満を生産年齢人口とし、65歳以上を高齢者と捉えているからです。今や高校進学率がほぼ100%にも拘らず、なぜ15歳以上が生産年齢人口に組み込まれているのか、65歳以上がなぜ養われなくてはならない老人や介護を要する老人になるか、また専業主婦など非就業者もいるなど、生産年齢人口の枠組みが大雑把過ぎます。問題の捉え方は、就業者人口と国民総人口との割合に着目すべきでしょう。従って、2人の生産年齢人口が1人の老年を養うのではなく、1人の就業者が自分自身や子供や専業主婦を含めた2人を養うということになります。先進国では老年人口は2025年に20%を超えますが、日本以外の国々で高齢社会の危機が騒がれることはありません。日本は老人に対する固定観念が強く、65歳以上の人は社会の弱者であり福祉や介護の対象という錯覚があります。高齢者問題を考えるポイントは、65歳以上を弱者とするのではなく、彼らに生きがいや役割を提供するような社会を構想する、すなわち彼らにとってふさわしい働き口、経験や蓄積を社会に生かすなどに目を向けることではないでしょうか。

次に卑近な事例として乗り物の優先席です。
公共的な乗り物に優先席（初期ではシルバーシートと呼称）と名指して、老人だけでなく障害者、妊婦、小さい子ども連れの乗客などの絵記号シールが貼ってあります。また年寄り、体の不自由な人、小さい子ども連れの方には席を譲りましょうと車内放送も流れます。このことは一般乗客に心がけを持たなくてはいけないと啓蒙するもので、何とも押し付けがましく感じます。私たちはごく普通の社会性を備えていれば、街中でも乗り物の中でも困っている人に出会えば、思わず援助の手を差し伸べるのが自然の成り行きです。勿論社会性にも色々あり、周りに気配りする人、自己中心的で周りに無頓着な人、親切の押し売りをする人などいます。電車内で席を譲るかどうかは、その人の選択に委ねることでしょう。世の中には不屈者はいつの時代にもいます。優しい人、冷たい人、積極的な人、消極的な人、色々あり眼の前の事態が深刻であれば、即応して援助の行動を表わします。上述の優先席は、自然な接触による同情心の発露を抑制する方が高いようです。人々は生きていくうえで、誰もが必要な自立心、危険や不測の事態に自ら管理する心構えを封じてしまうのは、得策でないとの思いです。

最後は、社会問題化した働き盛りの中高年男性の自殺です。年間3万人超の自殺者は、特に50代男性で増加しています。壮年期で健康な男性は強者に分類されますが、社会的に認知されない弱者が存在します。社会は移ろうもので、旧来の固定的な弱者観の拘束から脱却して、新しい社会像を構築することが求められます。今や多様な相対的弱者が溢れ、広範な共通性をもった絶対的弱者は存在しません。よしんば少数の割合で存在しても、絶対的弱者と強者の間には特定の固定した関係は存在していないようです。

2006年から“格差”がマスコミの話題になりましたが、自由競争社会では報われる人と落ちる人という格差は起こりえます。下層への格差が問題だと指摘されるものの、格差の問題はそれが固定される方が問題が深刻であり、やり方や努力次第で道が開ける社会の流動性こそが格差論点の中身ではないでしょうか。

村井　徹]]></description>
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         <pubDate>Wed, 10 Aug 2011 09:00:00 +0900</pubDate>
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         <title>時事問題（33）食は資源か文化かを問う</title>
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―二大潮流からの発想―

“食卓空間は現代社会を映す鏡”と言われるように、生活の基本は衣・食・住にあり生活様式であり文化です。経済の基本もこの食にあり、各国は農・水産業を重視しています。

食文化は学問上、文化人類学もしくは民族学の分野です。文化とは人間が集団として形成してきた生活様式や生き方・価値観の総体です。2005年、わが国は『食育基本法』を制定し、子どもたちにどう伝統的な食文化を伝えるかを取り上げました。
英国は18世紀以降、大規模農園による食と衣の大量生産と交易により、アジアを含めて世界経済を支配しました。その後英国の植民地であった米国は食糧生産の大規模化と効率化を進め、1930年代工業分野でフォードに代表される生産システムを食に持ち込み、食の工業化を推進しました。今日のサプリメント、遺伝子組み換え食品やファーストフードはその延長線上にあります。一方フランスは食を文化として捉えて、料理法に磨きをかけ食文化によって文化大国というイメージを築き上げました。
世界の主要国の食に対する態様は、食を資源とし工業化するものと文化とするものに大別できます。つまりアングロサクソン国家は前者であり、ラテン系やアジアは後者です。今流に表現すれば、前者はデジタル思考、後者はアナログ思考と言えます。また経済の視点からみても、ラテン系がブランドビジネスを可能にしているのは、フランス・イタリア料理と共通する背景があります。絶対王制時代の宮廷のために贅を尽くした料理文化を継承し、良い素材を吟味し丁寧に仕上げ、洗練されたデザインで高付加価値を高めています。一方アングロサクソンは、物ごとをシステム化し大量生産により市場を支配します。

米国で1930～50年にかけて農業の大量生産によって生まれたファーストフードは、正に食の工業化であり、商業資本が農業を支配しました。工業化とは均一な品質のものを地域や季節にかかわりなく大量に生産・供給します。しかし農作物の病気を防ぐために農薬や抗生物質を使い、それを摂取した生き物、それを食する人の健康を阻害するという悪循環をもたらします。米国の資料によれば、疾病予防センターの予測として、2000年に生まれた子どものうち、3人に1人は糖尿病に罹り、ヒスパニックやアフリカ系の子どもの場合、この数字は2人に1人としています。
英米型の食を資源とする負の部分は、狂牛病が象徴的です。これは英国で1995年に発症報告されました。元来この風土病は羊固有であったものの、草食の代わりに幼牛に肉骨粉を食べさせたことに基因します。羊、豚や牛の食用肉以外のものを加熱し、溶剤で脂肪を除いて乾燥させたものです。長時間加熱すれば、伝染しないのが石油価格の高騰により、コスト削減のため英国は加熱処理を簡略化しました。しかも汚染肉骨粉は輸出品に規制せず、米国やフランスなどで発生しました。
米国では近年富裕層や豊かな中産階級の間で健康指向、スローフードが高まっています。伝統的な西洋料理に中国、日本、ベトナム、タイ等のアジア料理が加わり、特に日本料理の影響が色濃くなっています。またフランスでも1970年代ヌーベル・キュイジーヌという動向があり、宮廷料理のように手の込んだソースから素材の味を活かす方向に変わっています。さらにイタリアでも各地の伝統的な食材や調理方法を見直そうというスローフード運動もあります。

近代化とは、資本の論理による経済効率により、安く大量の製品を消費する生活をもたらす一方、環境問題を引き起します。食を考えるとき、効率、生産性、単一性を旨とする産業革命以降の英米型と非効率的であっても豊かさと多様性を旨とするラテン・アジア型があります。食の工業化によって栄養のバランスが偏り、肥満や成人病が顕著になりました。さらに食に含まれる化学物質や抗生物質があります。野菜にしても殺虫剤や除草剤といった農薬を使い、安いコストで大量に生産しようとします。また製品プロセスでも外観を高めるために発色剤や防腐剤、人工香料、調味料を添加します。こうした薬品類を摂り続けると人の健康にどのような影響があるかは、未だ解明されず20～30年要すると言われています。

最後にわが国の食料自給率について言及すると、2006年以降カロリーベースで40％以下と先進国の中で最低水準です。1965年に73％であったにもかかわらず、1981年に5割近くまで落ち込みました。その間、日本は産業力により外貨を稼ぎ、食料やエネルギーを海外から買う国になりました。農業は一次産業に属しますが、1965年の労働就業率は24％であったものの、1989年に10％まで下がり、2006年には僅か４％です。（その分三次産業であるサービス業にシフト）しかも世間でいう高齢化に伴い一次産業は、65歳以上が占める比率は60％にもなります。
食の安全意識が高まっても、日本が自給できるのはコメ、芋類と鶏卵だけです。2007年から始まった農業補助金による農業強化が2015年までで自給率45％になるかが問われています。
経済学からみれば“比較優位”という考えがあります。貿易による国際分業の利益に関するもので、全体の効率につながる考えです。
元来、日本は近代化以降、海外に依存しなければ存在しない資源輸入国の構造であり、食料だけを国内生産しても意味がないようです。
前述のカロリーベースの自給率算定では、野菜・果物は同じ重量でも低カロリーであるため、価値に比べて低評価になります。生産額ベースであれば、現自給率は約70％になります。鶏卵は生産額ベースで自給率96％であるものの、餌であるトウモロコシの自給率が9.7%しかなく、カロリーベースの自給率が9％で指標により増幅されます。要は比較優位の分野に特化し、比較劣位の財を輸入するのが命題でしょう。
大胆に言えば、自給率引上げではなく、安全かつ安定的な供給源を確保することです。そのために供給源の分散が必須です。コメが輸入規制により利益を得るのは、国際的に生産コストが割高である国内生産者です。一方、消費者は高いコメを食べます。
食料価格の高騰は自給の問題ではなく、食料に対する支出増加にあります。その要因は輸入規制による高関税です。2005年総務省家計調査によると、米国のエンゲル係数（家計に占める食費率）は約7％、日本は18％です。
従って日本が輸入規制を撤廃すれば、その係数は半分以下になります。このことは食料価格高騰の影響より大きく、輸入規制を緩和・撤廃が消費者の利益になります。
日本はコメの生産調整（減反）のために、農家への所得補償は9千億円前後になっています。コメにこだわる政策から脱皮して、農業経営者の創意工夫により自由な環境づくりが必要であり、農業生産法人化に注目したいところです。既に全国レベルで１万超が設立され、産業システム的な分業化による高い生産性が新潮流です。
食は国の根幹事項であり、関税を高くしたり、補助金により農業を守る手法に限界があり、問題解決に新しい政策の構想力が求められているのではないでしょうか。

村井　徹]]></description>
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         <pubDate>Fri, 10 Jun 2011 09:00:00 +0900</pubDate>
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         <title>時事問題（32）世代間の“のんびり”感の違い</title>
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―物質的豊かさがもたらした社会の歪み―

わが国には青少年問題を研究する（財）日本青少年研究所が1976年から活動しています。最近の調査で浮かび上がった日本の若者の特色に“偉くなりたくない“”リーダーというクラス委員にもなりたくない“”何の責任もなく楽しくやるのが一番“という思いです。物質的な豊かな時代に育った若者は、暮らしていける収入があればのんびりと暮したいという考えが43％も占めています。その根底には他人の親切や助け合う必要さが希薄になり、互いに傷つかない他者関係を大切にします。総じて平凡がいい社会、目立たなくともいい社会、もっと言えば1980年代から顕著になった豊かな消費社会がいつまで続くのか判然としないのにも拘らず、個人の目的・目標もない社会になり、学習への熱意も低下し他人と違う“わたし”の差異化が失せてしまいました。現代の若者には往年のような挑戦、冒険、知恵、勇気から縁遠くなりのんびり指向です。一方、学習内容を大幅に削減した2002年、学習指導要領が実施され、義務教育段階からゆとり教育を経験した1987年生まれの世代を第１世代と呼んでいます。日本能率協会グループが実施した新人社員に関するアンケートでは、彼らはまじめであるものの、言われないことはやらない受身型、またリアクションが薄いといった弱みをもち、全体として活溌さが不足していると報じていました。彼らが育った時代はバブルが崩壊し、右肩下がりの経済しか体験せず、物ごとに保守的な傾向があり、パソコンやケイタイの普及期にあったためITスキルはあっても不特定多数と付き合うことに慣れていないようです。

現代人は常に時間に追われ、効率を求める生き方が心の余裕、ひいては心を破壊していることが、近年メンタルヘルス問題として浮上し、うつ病の増加になっています。とりわけ1990年代後半から１人当りの仕事量が増え、要求水準も高くなりました。
“ぼんやり”とは無為であり、閑適ですが、ゆったり、急がない、いらだたない、あるいは何もしないといった響きがあります。人には仕事を離れて休む場と時間が大切です。あわただしく、せちがらいこの世に生きてぼんやりすることの大切さが失われました。
ぼんやりは、都会の高層ビルの最上階にいてもいいぼんやりの時間を過ごせる人はいるかもしれません。また繁華街のコーヒー店で雑踏を眺めながら満ち足りたぼんやりの時間を過ごせる人もいるのかもしれません。しかし山に入って沢のほとりで休み、坐ったり寝ころがったりという時間をもつとき、ぼんやりは極めて深い質になります。自然にとけこむということは、人間が太古の自然に生きていた野性をよみがえさせる気がします。ここで言う野性とは生きる力、生命力です。

ぼんやりしている時間は非常に大切で貴いと書いたのは1970年代の串田孫一でした。『山のパンセ』が有名ですが、彼は詩人、ナチュラリスト、画家そして哲学者でもありました。山を歩きながら、姿のいい木や静かな水辺に来ると、立ち止まり坐りこみ、2･3時間でもぼんやりと時を過ごすのが好きな人でした。勤勉は善、怠惰は悪という価値基準に逆らって、ぼんやりが貴いと言ったのは、プラスになるぼんやり、生きる糧を与えてくれるぼんやりがあるということです。彼のぼんやりは、俗事を忘れ静かな気持で時を過ごす意味合いです。大自然に抱かれる心の状態は、風のない湖面のように平穏である一方、感受性は鋭敏な状態にあり、一本の草や木、一羽の鳥、一匹の虫との静かな交流が可能なほど自然との融和な感覚がありましょう。
フランスの大統領であったF・ミッテラン『いま、フランスでは』を読むと、自然にとけこむことの大きさを指摘しています。季節のリズムに合わせる生き方、人間は自然であることを忘れてしまったと記しています。自然の知恵とは循環、再生そして多様性を維持するもの。“夏の夕暮れどきの、樫の木々に映える日の光ほど心を満たしてくれるものはない”という言葉があります。これは樫の木々が織りなす光と影の美しさを見ながら、ぼんやりとしたひとときを過ごす、それは至上の喜びです。
話は変わりますが、パリのセーヌ川が流れるルーブル美術館の近くに歩行者専用の橋があります。絵を描く人がいたり、長い細いベンチに坐って川の景色を眺めている人もいます。正に質のいいぼんやり時間のある居場所です。川の建物が融和した景観は素晴らしく、シテ島も見えます。美術品は美術館に飾られるばかりではなく、19世紀にパリの都市計画者と市民の凄さは、川岸や橋の景観の質を高めることで風景そのものを芸術化したことです。フランスと言えば、2007年のミシュランの「観光案内」で高尾山に3つ星をつけました。こんな素晴らしい森が東京近郊にあることは奇跡だと驚き、フランスにない照葉樹や落葉広葉樹をまじえた森に強く魅せられました。高尾山に真言宗薬王院という寺があり千二百年前から殺生禁断の教えを守り、山の豊かな自然を守ってきました。しかし国や道路公団は圏央道のために高尾山直下にトンネル工事を進め、高尾山の静穏、森の静謐を奪う日本の文化政策の薄ぺらさをパリと比較して空しさ、恐ろしさを感じることは時代遅れであるでしょうか。

今やWLB（仕事と生活の調和）が呼ばれていますが、動があって静がある。働きがあって休みがあるからこそ、いい働きが出てくるという側面があります。暮らしの中心は静であり、休み。楽しい休みが幸せな静であるから創造的な動や静が生まれる。
人は働くことで休む時間が得られ、休むことで生きる力、よりよく働く知恵やエネルギーを得られる。休みは負の営みではなく、生きる力を強いものにする。休むという文字は、人が木に寄りかかって憩う情景から生じたと言います。これは人が自然に抱かれとけこんでいる姿です。森の道を歩き、山に登り、そして海に遊ぶ。自然にとけ込むという基本が人の心を解放し、新鮮な生命力をよみがえらせます。動と静に対比して緊と緩があります。緊とはいらいら、あくせくという心の状態に対して、緩は緊張の後、ぼんやり休むことです。ものに依存しない暮し方とは、変哲のないものに喜びを見出し味わうこと、その中に心豊かな人生の過し方があるとフランスのローホが『シンプルに生きる』で力説しています。
最後に追記すれば、常日頃から自分自身を客観視できれば最適です。客観視とは自分を冷静に見つめられるもう１人の自身を置くことを意味します。“今何が必要か”“今なすべきことは何か”こういった問いかけを自ら課すことで、へこまない“自分モデル”を確立することが、老若男女とも必要ではないでしょうか。

村井　徹]]></description>
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         <pubDate>Sun, 10 Apr 2011 09:00:00 +0900</pubDate>
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         <title>時事問題（31）日本の教育格差</title>
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―教育学と経済学とのせめぎ合い―

戦前では親の社会階層（教育・職業・所得）が高いと、子どもの教育水準も高く、逆に社会階層が低ければ子どもは高い教育を受けることは出来ませんでした。しかし戦後になり親の社会階層が低くても、子どもが望んで努力すれば高い教育を受けえる時代になりました。こうした状況は高度経済成長が終わる1980年代頃まで続きました。その背景には、親の学歴よりも子どもの学歴が下になることを回避する、あるいは親よりも高くしたいと親子が望みました。また子どもがホワイトカラー職である事務職、管理職、専門職を望み、最低でも高校、できれば短大や大学まで進学する必要性がありました。さらに、1980年代まで高校や大学の授業料とそれに付随する教育費は安く、家計上、親が子どもの教育費を負担できる余裕がありました。
前述のことを高校進学率で捉えると、1955年では50％強、1975年には95％と限りなく100％に接近、一方、大学進学率も1955年では10％、1960年代で20％、2005年前後に50％超の水準になりました。その要因には女子の短大・大学進学率の上昇、就業意識の高まりがありました。18歳人口の半数以上が短大、大学に進学する国は米国と日本だけです。このように高等教育を受ける時代を大衆教育社会と呼び、高校・大学間の格差が大きくなる副次的効果をもたらしました。具体的には能力・学力だけでなく、名門度、ブランド度の違いです。つまり偏差値の非常に低い大学では、能力、意欲面で大学教育についていけない学生が発生し、人口資源の配分としても望ましくない現象が出ています。
戦後の教育は、すべての子どもに教育の機会を提供し、充実させることを目指して再スタートしました。その教育システムは様々な問題を指摘されながらも、公平さという点ではうまく機能しました。しかし今日では学力低下や学力格差など問題が指摘され、学校を卒業しても就労できない若年層が増え、教育と就労の連携がいかない深刻な問題を露呈しています。直近の総務省資料では、学校を卒業した後も就職できない者が約12万人に達し、15～24歳の失業率を8％と押し上げています。
教育のありようは、その国の行方を左右する大きな課題であり、日本社会が関心をもつ最大のテーマです。教育問題は教育学、社会学、哲学などの分野である一方、経済学の視点からも論ずることが出来ます。

教育学の立場では、教育の目的は人間性を高めるものとし、人間が生きていくために他人に迷惑をかけない、法律を犯さないなど社会や他人との接し方を教育から学び、価値観、社会観をもたせようとします。一方、経済学の立場では教育は社会に出て働くための準備期間として、どのように教育すれば働き手として有能になれるかです。つまり、人が生きていくために何らかの労働に従事し所得をえます。それを仕事の遂行とすれば、知識や技能を高め仕事の効率を仕組みとします。
わが国の大学教育には2つの考え方があり、1つには東大、京大やICU等の教養教育を徹底し、かつ学問の奥義を究めることに存在意義を求め、教養と学問を両立させる考え方、もう1つは私立大学等の卒業後に人が有能な職業人として働けるような素地を身に付けようとする考え方です。欧州の大学は一部の伝統校を除き、一般的には専門的な職業人の教育が目的とされ、次いで教養教育を重視しています。そして大学進学を決める要因には親や家庭の経済状況に加えて、次の要因もあります。①本人の能力・学力②名門校か非名門校③家庭での教育熱心の度合③本人の努力度合④中・高校の教育の質⑤学校外教育（塾や家庭教師）の役割⑥学費と奨学金制度です。

教育格差には2つあり、1つは機会の格差、2つは結果の格差です。前者は教育を受ける平等な機会を与えられているかの格差です。その内容には、①親の学歴、職業や所得などの家庭の経済状況②親子の教育・学習に姿勢により進学が適わないことです。一方、後者の結果の格差は教育の結果、異なる教育を受けた人の間で社会・経済生活に入った後の格差であり、①中卒、高卒、短大卒、大学卒、大学院卒といった卒業段階②最終学校で何の専攻科目を学んだか、学部や選考の違いです。
わが国では欧米諸国や韓国と比較して賃金・所得格差はかなり小さく、強固な学歴社会ではないものの、どのような職業に就くか、あるいは企業でどれくらい昇進できるかには学歴の影響はあります。今日では学歴についてどの学校を卒業したか、名門校の学部に多くの関心が集まっています。
この結果の格差は低学歴者の問題が深刻です。中卒、高卒あるいは高校中退者が職を見つけられないことや職を見つけられても労働条件が厳しく、パート、派遣、契約社員、フリーターといった非正規労働者という不安定な低賃金の職に就き、今日の格差問題が下層に位置づけられ、貧困をもたらしています。
わが国の子ども教育は、主として親や家庭に責任があると考えます。特に大学の高額な学費負担は本人や親が担います。国立大学の学費は年額50万円超、私立大学はその2倍以上、米国以外の国々と比較すると、先進国の中で日本が最高額であり、教育は私的財とする意識が強くあります。
教育の場で機会の格差は好ましくなく、前述の経済状況等から高校や大学進学を断念しなければならない有能な子どもたちの成長の芽を摘みとらないよう育英資金とは別に、財団制度を新設する必要があります。敢えて言えば、結果の格差は競争原理から社会的にやむをえない事象です。確かに現代社会の風潮は、競争という言葉を忌み嫌います。競争に違和感をもつ人が半数以上であり、“心おだやかに生きる”“人と比べることは意味はない”・・・などです。一方、競争をよしとする人は、“努力が報われる”“自分の実力がわかる”・・・などです。競争肯定派でも競争否定派でも自分自身について勝ち組でも負け組みでもないが70％以上を占めています。競争に勝つ要件には努力、才能、意志といったものの複合化です。
なお、人生に勝ち負けもないというのであれば、自分の持ち味を生かし等身大で長く社会で活躍できる道を選ぶのが賢明です。

最後に強調したいことは、生涯教育です。
文系であれ理系であれ、社会に出てから必要な知識や技術が何かに気づきます。新しく学んだり、学び直しはキャリア形成やキャリアアップにも役立ちます。学びは齢85歳まで脳機能からみて持続可能です。学びの持続性が重要であることは、いつの時代でも不変です。 

村井　徹
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         <pubDate>Thu, 10 Feb 2011 09:00:00 +0900</pubDate>
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         <title>2011年を迎えて</title>
         <description>働きがいある会社を目指す

前年度に環境変化の対応を記しましたが、このことに視座を変えて再考します。
“働きがいある会社”とは、組織に携わる全社員の間に信頼関係が築かれた会社です。信頼は相互の感情であり、自己信頼があれば、他者に開放的になり他者からも信頼されます。社員が会社を信頼する内容には、財務業績、賃金といった基本データに加えて、会社の方向付け、人事政策、情報の開示度合、職場のコミュニケーション、連帯感といった充足感があるかどうかです。もっと端的に言えば、働くことに意味づけをしている会社が“いい会社”です。
では、いい会社とはなにか、そこに共通する要件に次の４つがあり、連関しています。
　①時代の変化に適応するために、自らを変革させている
　②社員を尊重し、能力を生かせるような事業運営をしている
　③中・長期的な視点で事業が行われている
　④社会での存在意義をもって社会・地域に貢献している
つまり、時代や環境の変化に適応するために、変革の主体は社員です。社員の能力を引き出し、働く意味をもたせ、会社の社会での存在意義を明確にします。また、変革の方向を考えるうえで中・長期的な視野も必要です。
リーダーの役割は、社員の変革意識の高揚や、変革するための組織風土づくりが重要です。

村井徹
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         <pubDate>Wed, 05 Jan 2011 09:00:00 +0900</pubDate>
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         <title>時事問題（30）戦後の消費性向の変遷がもたらしたもの</title>
         <description><![CDATA[<img alt="hito_b.jpg" src="http://www.epl.co.jp/column/hito_b.jpg" width="60" height="64" />


―物資的豊かさからの脱皮―

2008年の世界同時不況以降でも、政治の政策目標が国民総生産を上げることが国民の幸福であるという意識です。そのために国民総生産を回復させるためにどうすればよいかの議論になっています。
戦後のわが国で幸せが物質的豊かさを求める消費活動とどのように結びついていたかを視点にして、今後の消費動向を考察していきます。
近代経済学では、労働＝苦痛、効用＝幸福と図式化しています。近代社会とは消費社会であり、消費のために生産が成り立っています。つまり幸せを生み出すと期待される物品が入手できなければ幸せでない。人々は買い続け消費し続けます。貧困とは買い続けられない状態で、それを不幸と言います。わが国の消費の変遷を4段階に区分して概観します。

1.	戦後から1980年頃までの”家族消費期”
欧米も含めて全ての近代社会の成長期は、家族消費期でした。米国に倣い家族が共同体として3種の神器、3Cは家事時間を省力し、生活を快適に楽しくしてくれるものであり、生活を解放し、余暇・レジャーを楽しめるようにしてくれるものでした。正に結婚して家電製品を買い続け、マイホームを購入し、子どもに高等教育を与え、結婚を見届け、物質的に豊かな生活でした。この時期の特徴は、①大型志向、②自由時間を増やすもの、③快適性、④自己所有の喜びでした。モノが増えて家の中が手狭になりながら、隣の人の視線が１つの評価基準となり、お金で必要なものが買えれば幸せである段階でした。

2．1980年から1995年までの”個人消費期”
消費とは大衆消費であり、1つの方向性が社会のトレンドでした。1982年、バブル景気が始まる頃、消費は個人消費期に移行しました。この時期は家族の稼ぎ手であった夫の収入が上昇して、消費の個人化になりました。つまり消費の主体が家族から個人に移り、その1つは家族消費が完了して新たにモノに幸せを求める人々、もう1つは家族消費による幸せが未完了であきらめて、それ以外に消費を求める人々に大別できます。不思議なことは、可処分所得の格差拡大に伴い、上述の2つとも同じように消費は個人、すなわち個人化したことです。この期の特徴は、人によって幸せを感じるモノ・サービスが違い、短期間しか持続せずライフサイクルも短縮化します。ブランドは幸せを生み出すと期待されるモノが個人化されるとき、威力を発揮します。しかし自分がこだわるブランドを買い続けられなくなると新しい貧困を感じたり、よしんば買い続けられても空しさを感じます。いずれにしてもブランド消費は行き詰ります。この消費性向はマスメディアによる他動的な消費であり、自分が主体的に選んで消費したものではありませんでした。そしてお金があれば、何でも出来る風潮も生みました。
3．1996年から2009年までの”消費減退期”
上述のように家族・個人消費期の買い続けることによって幸せを得られることは、バブル期を頂点にして豊かさが実感できないと分かりました。曽つての小売りの雄と呼ばれた百貨店とスーパーの売上高は、2009年度で20数年前の水準まで落ち込み、売れ残り品を格安で売るアウトレットモールがデフレ化で節約志向も追い風に人気を集めています。これまでの消費社会は、経済成長を前提として成り立ち、個人の可処分所得も増加し続ける前提でした。しかしここ15年間、国民総生産が多少増大しても、殆んどの人々にとって実質的にゼロ成長の時代でした。若年層を含めて就職難、就職しても給料が増えるかどうか分らず、結婚できるかも分らない―見通しが立ちにくくなっています。中年層も状況は同じで現在の生活水準を将来も持続できるかの不安があり、個人消費への意欲が低下し、個人消費を控えます。こういう時期には激しい価格破壊があります。一方、無印良品が若年層を中心に人気があるのは、手ごたえ消費感覚だと言われています。生活雑貨から家具まで7,000アイテム超を提供し余分な装飾を排し、シンプルさを売りにして無駄なしの値ごろ感が分り易いものです。

4．2010年以降の多様な価値観による”消費分散期”
安いものを選んで買い求める価格志向が強まっています。最近のこの志向は日々の食材のように強く欲しいわけでなく、仕方なく買うものをより安く手に入れようとします。それは生活コストとして買っているだけで喜びではありません。お金に余裕があるかではなく、自分にとって興味のあるもの、自分がお金を払う価値があると思うものに高い金額を払い、そうでないものは安く済まそうとします。
幸せについて古今東西、哲学者、経済学者や社会学者など種々な知識人が、主観的、客観的な視点から捉えようとしていますが、一般的には①金、②健康、③人生の充実感で成り立っていると言われています。特に③は自分の存在感、他人からの承認と生活の持続性ではないでしょうか。またお金がなくてもできることを求める段階にも入っています。そんなに贅沢な暮らしをしなくても、何かをしたいときに困らないだけのお金があればよいと考えます。新しい手ごたえとして、環境意識も高まり、社会のためによいことを購入の決め手になることです。

最後に消費と仕事、そして幸せについて考察します。仕事は消費の反対概念として捉えられていましたが、幸せから考えれば仕事と消費は同類です。仕事には2つあり、1つは上司から与えられた組織の仕事である外発的な仕事、もう1つは自分が成長できるようなやりがいのある内発的な仕事です。仕事は自分の居場所と役割を与えてくれます。今の若年層が求める働き方は、組織の歯車としての働き方ではなく、自分の能力を発揮できる仕事、個性を活かせる仕事・職人のような働き方です。組織には規則がありますが、与えられた課題を乗り越え達成感、充実感を味わえる人は仕事に幸せ感を確認できます。
時代がどのように変転しようとも、自分自身の生き方、自分が成長していく具体的イメージを抱き努力していく。そのために知能技能を学び習練して、これと決めた分野で専門性を磨き、どこでも通用するスペシャリストになる。一方、プロフェッショナルは企業内の矛盾や不条理と折り合いをつけながら、事業の課題を選択してなすべきことを考え、取り組み実績を上げる人です。

村井　徹]]></description>
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         <pubDate>Fri, 10 Dec 2010 09:00:34 +0900</pubDate>
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         <title>時事問題（29）再び平等主義を問う</title>
         <description><![CDATA[<img alt="hito_b.jpg" src="http://www.epl.co.jp/column/hito_b.jpg" width="60" height="64" />


―平等の二義性について―

当コラムNo.9『社会は不平等ですか』（2007年6月）で、平等を取り上げましたが、さらに掘り下げて考察します。
2008年からの金融・経済の世界同時不況により、パート、派遣、契約社員などの非正規社員を増加させたり、失業者増を加速させました。
本来、自由主義国家は国民に自由な経済活動を平等に与える、いわゆる機会均等がありますが、その結果が平等になるわけではありません。しかしマスコミや世論では、結果の不平等を格差として断罪する傾向にあります。今回は平等の意味合いを探ります。
「人は生まれながらにして平等である」とは、小中高時代に聞いてもキレイな言葉であるものの、生徒・学生が大人になって社会に出たとき、現実の格差社会を見聞して、どこが万人平等なのだと憤慨します。そのために、社会とは理想と現実に隔たりがあると自分を納得させるだけで、そこから先を考えなくなったり、あるいは格差社会の勝者に憧憬や恨みを招くことになります。
本来、平等には“比例的平等”と“無差別的平等”があります。例えば前者は仕事量に応じた成果対価であり、後者は仕事量に関係なく一律的な対価です。前者を支持すれば、後者は不平等に他ならず、後者を支持すれば、前者は不平等になります。そう考えれば、“平等社会はよいことだ”と言っても、平等の2つの意味は真っ向から対立します。このようにどちらの平等をよいと考えるかを規定しないと矛盾を内包した無意味な主張になります。しかしややこしいことは、比例的平等を支持しても自分より能力で優位者がいれば、自分が下位に我慢できず、自分が不利益にならない潜在的意識が働きます。そして無差別的な平等を支持する側の立場をとります。
格差のない平等社会を目指すことは結構なことである一方、平等という言葉の背後には“自分は他人に優越したいが、他人の優越は認めたくない”という心理が潜んでいます。平等について考えるとき、平等社会というキレイごとで考えるよりも、まずは自分が他人の下位に立ちたくないという本音を自覚しておくことが重要です。格差のない平等なシステム構築は、ユートピアとして誰もが認めても、上述の不条理に生き抜く本性を誰もが自覚しておく必要があります。

平等という概念は、自然法思想の“権利”にあります。つまり天与の権利が同じであり、自分と他人が同じではありません。男女平等とは男と女の権利が同じであることを意味し、容姿、性格、運不運などが同じではありません。法は正義によって支えられ、権利は法律で明示されるものの、裁判所の判断により保障されます。
福沢諭吉は『学問のすすめ』の中で、同等（平等）とは有様の等しいことを言うのではなく、権利通義である生命権、財産権、名誉を守る権利の同等性と明記しています。従って、人が平等であるという場合、権利の平等が基本であるものの、常に権利だけが平等で論じられず、権利に伴う義務の平等もあり、機会、待遇や報酬など様々な条件で規定されて“人は平等である”という命題が意味をもちます。また福沢は、賢人と愚人との別は“学ぶと学ばざる”とによって出来ると論破しています。教育の機会均等は、貧富や職業の差別なく平等に与える教育の平等を提起し、教育を受ける権利、機会は皆平等としました。
現行法では平等であるためには、消費税は何人であろうとも一律5％ですが、所得税は高所得者ほど税率が高く累進税が適用されています。これは比例的平等です。選挙権は成人に対して皆1人1票という社会システムを構築して無差別的平等です。このように、平等社会とは合理的な使い分けがあって成立します。
さらに株式会社では、株式を多くもった者がより多くの議決権の行使が可能となり、これは比例的平等です。
平等とはそれを主張するとき、どういう条件下で比例的平等を適用するか、無差別的平等を適用するかが問われます。“万人皆平等”という表層的なキレイごとを唱えるだけでは意味不明です。

次に労災保険法は、労働者に該当すれば誰にでも雇用期間と無関係に適用されるため、無差別的平等です。パートタイマーであれ、アルバイトであれ、労働者以外にも一定の条件を満たす1人親方や中小企業の事業主も含めて加入できます。この他、労働基準法や最低賃金法も無差別的平等であり、労働法は労働の身分により区別はありません。しかし労災かどうかの認定は、労働基準監督署で仕事中の怪我や仕事が原因で病気になった場合、“事務上の負傷や疾病”に該当し労災保険を適用、また“業務上の障害や死亡”も保険対象ですが、それ以外では健康保険の適用です。ここで言う“業務上”とは、具体的な業務に従事している途中という限定ではなく、会社の支配下あるいは管理下にある状況（専門用語で業務遂行性という）です。また、こういう状況に伴って危険が現実化したと認められる場合（専門用語で業務起因性という）には業務上と見做されます。さらに“通勤災害”は業務上の災害とほぼ同様の給付を定めています。法令上、通勤災害に該当する行為には日常生活に必要な行為である日用品の購入、職業能力の向上・開発に資する教育の受講、選挙権の行使、病院診療や家族の介護があります。しかし昨今の働き方が多様化するにつれ、「労働者とは誰か」すなわち該当の有無の判断基準が明確でありません。労働基準法上の労働者とは“職業の種類を問わず事業または事業所に使用される者で、賃金を支払われる者”（9条）と規定されていますが、具体的にどの範囲まで人が労働者に含まれるか判然としません。例えば病院の研修医、公共料金の集金人、保険外交員、バイク便のライダーやテレワーカー等です。

上述の業務上の疾病である過労による健康障害の取扱いは、労働基準法施行規則表第1の2に列挙された職業病ですが、脳・心臓疾患（クモ膜下出血など）では生活習慣などに起因するために、果して業務上かどうかはケースバイケースで、その判断基準は容易ではありません。直近5ヵ年では、年間請求件数が14件であり、認定件数は概ね43％となっています。法的に決着しても、その結果による補償金額に大きな差がつきます。勿論、本人の恣意的行為や業務逸脱行為によるものは業務起因性は否定されます。
今回のテーマから、労働者の規定や疾病の基準づくりを思い切って簡素化する必要があるものの、妥当性に欠ける恐れが生じます。また、英国のように業務上の災害という概念は採らず、すべて健康保険や国民健康保険の適用であれば、無差別的平等ですが、日本では労働者側の賛意は得られず難問です。このように建前では平等主義を掲げても、本音では人為的・時代的な判断基準に依拠するために、無差別的平等に沿うことは至難です。 

村井　徹]]></description>
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         <pubDate>Fri, 08 Oct 2010 09:00:54 +0900</pubDate>
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         <title>時事問題（28）日本の地域間格差</title>
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―中央と地方の共生を求めて―

当コラムNo.13（2008年2月）にて格差社会を個人所得の視点から記述しましたが、平成に入って地域間でも格差が広がっています。例えば東京23区の殆んどの区は、中学校卒業までの医療費を無料化する一方、2007年に財政破綻した夕張市では住民サービスの質を全国最低水準まで下げて、多額の負債返済に四苦八苦しています。一般には財政状況が厳しい自治体では、高齢者向けの福祉サービスの個人負担額が増えているのが現実です。このように地域社会の崩壊は人心の崩壊、ひいては国全体の崩壊を伴っています。

平成の大合併により、約3,300あった市町村は半分近くに減少しましたが、その理由は国が元利償還金の7割を交付税として措置した合併特例債を活用したからです。2010年の国勢調査によると、ほんの一握りの人口増加自治体と大多数の人口減少自治体という二極化が進行して、財政力などで豊かな自治体と貧しい自治体が顕著になっています。前者は大都市やその周辺に限られ、後者は地方の農山漁村です。一方、雇用環境は中京圏の地方自治体では軒並み勝ち組となり、青森県や沖縄県などは負け組みです。しかし雇用環境で勝ち組であった中京圏の多くは、いわゆる3K（汚い、きつい、危険）を外国人労働者に依存して、外国人住民の割合は他の自治体よりも高く行政サービスの負担増です。このように相互に複雑な要因が入り組んで地域間問題は深刻化しています。
1990年代中頃までは、地域間格差があっても比較的均質な社会で許容範囲内であったものの、21世紀に入ってグローバル化の進展と規制緩和により、その許容限度を超えています。中央と地方、勝ち組と負け組みの自治体は対立するのか、あるいは共生するかは意見が分かれます。日本の人口は既に減力化し、大規模災害の危険性が指摘される昨今、地域間で助け合う、共助が必要であると共に、中央と地方が相互補完の関係を築くことも必要です。

最初に取り上げるのは「道州制」の問題です。道州制とは、明治以来130年近く続いた都道府県を廃止・統合して道や州に再編する構想です。地方制度調査会で検討され、前述の市町村合併に次いでの改革です。戦前の国の出先機関化していた都道府県は戦後に自治体化し、1957年以降、道州制が提言されてきましたが、法制化に至りません。この構想は国と地方のあり方を見直し、行政の効率性とコスト削減を求める広域自治体改革です。具体的には現在都道府県が実施している事務を大幅に市町村に移譲し、道州は広域事務を担う役割と国の出先機関が実施している事務を道州に移譲するものです。
政府の懇談会中間報告によれば、2011年に道州基本法を国会に提出し、2018年までに完全移行を目論んで、今後区割り（10ブロック前後の広域自治体）に議論が移ります。グローバル化が進展する中で、国際社会で自立した国家の役割は、外交、安全保障や生活保障などに注力し、内政事項は基本的に自主立法権をもつ道州と福祉などを基礎自治体に任せて、分権型社会を目指す狙いがあります。しかしこの実現に向けての課題もあります。何よりも国民的な議論が行われる仕掛けが必要ですが、地方の新聞社、放送局、銀行や各種団体がすべて都道府県を単位として組織化、運営されている現状では、それらの再編等に種々な影響を及ぼします。さらに日本の地方議会は国会議員制度を参考に地方議員制度が構築されました。英国のように執行権もなく、中途半端な位置付けです。また人口当たりの議員数も多く、処遇も高い有様です。英国が議会開催時の出席手当しか支給しないため、その報酬は日本の半分以下に対して、日本は定例会議を年4回開催し、2・4週間続き、地方議員は自営業、農業、建設業などの職種に偏っています。マスコミで話題になっている政務調査費の使い道も透明性に欠けています。

次に取り上げるのは「地方交付税」です。この原資は国税のうち、所得税の32％、酒税の32％、法人税の35.8％、消費税の29.5％、たばこ税の25％で合計2006年度16兆円を地方交付税として各自治体に配分され、各自治体の歳入の20％を占める重要な財源です。税財源が脆弱な市町村では大きな歳入ですが、小泉内閣の三位一体の改革で削減が続き、総額抑制だけが話題になり、地方の自助努力による行政改革を阻害している側面もあります。この議論は、削減したい財務省と守りたい総務省の対立だけではなく、中央と地方の財源争いでもあります。交付税や補助金は、既得権の問題ではなく、基本は全ての地域や住民に憲法が保障する最低限のサービスです。
現代の日本は、情報を中心とする諸機能が中央である東京に集中している偏りもあります。日本人はお上頼り、行政頼りの傾向が強く、既に限界に達しています。今やNPOやボランティア団体が世界的に注目を集めています。環境、福祉や街づくりの分野で行政を補完し、地域活性化に寄与する団体が全国各地で誕生しています。また企業の社会的責任や地域貢献も益々重要になっています。これらも地域活性化につながります。
バブル崩壊後もインフラ整備を進めるために、公共事業へ多額の税金が投入されました。確かに道路が整備されれば、雇用も増大し地域経済にもうるおいがあるものの、そのツケは多額の借金残高として後世に重くのしかかります。公共事業依存だけでは地域経済にプラスになりません。環境や国土保全に注力する方が地域の魅力を増します。

日本は古い歴史をもちながら、北海道から九州・沖縄まで大した変り映えのしない町づくり、町並みになっています。全国各地の駅前に乱立した○○銀座通り商店街（さびれてシャッター通り）があり、その土地柄の歴史、文化を主張していません。どの街も実用一点張りの規格品の建築物が全国津々浦々に同じ街並みをつくって、個性もなく奥行きのない経済原則に支配されています。
旧西独の敗戦後の都市づくりは、計画的に全国18都市毎に特色ある文化と景観をもち、独特な地域社会を形成しています。
地方が地域の個性を生かし、そこに暮らす人々が生きがいを見出せるような地域社会づくりが必要でしょう。中央が生みだす財源が地方を再生し、地方の再生が中央の生活を支える―経済的には中央ほど物質的・利便性では豊かでなくとも、地方に住む人々がその町に愛着と誇りをもって心の豊かさを実感できることが求められているのではないでしょうか。 

村井　徹
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         <pubDate>Tue, 10 Aug 2010 09:30:55 +0900</pubDate>
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         <title>時事問題（27）公官庁の評価基準は効率性か</title>
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―市場原理主義がもたらす弊害―

2007年度末の公務員総数は400万人弱で、内訳は国家公務員数約92万人で、中央官庁・出先機関に所属、地方公務員数は約300万人が都道府県庁・市町村役場に所属しています。
キャリア・ノンキャリア、そして地方公務員を問わず、公務員全体に対するマスコミ批判が強くなっています。2007年－08年、年金問題で叩かれていた社会保険庁はその典型例でした。公務員バッシングの背景には、①度重なる不祥事、②少子高齢化、③財政赤字の累計、④労働者給与の減少、⑤市場主義の影響などです。
明治以来、日本は中央政府が国家計画を考え、それを全国一律に浸透させる体制でした。従って、地方自治体は中央官庁の計画を忠実に実行する機関でした。“機関委任事務”とは都道府県知事などが国の出先機関であり、国の定めた事務を処理、知事は選挙で選ばれた代表である一方、国の出先としての役割を求められました。今や中央集権から地方分権へと舵を切って、地方自治体の事務の裁量は増えつつあります。また、財政や組織運営面での自治体裁量権も増えています。しかし自治体にとって、地域に格差が生じ所属する自治体により賃金面の処遇が違っています。すなわち税収、物価、地元企業の給与水準が配慮されます。
近年、地方公務員の多様化に非正規の存在があります。市町村役場の窓口で対応する人にアルバイトの人が多くなっています。アングロサクソン諸国でも小さな政府を目指し、派遣や契約職員などが多くなり、日本でも非正規公務員が20％を超えています。
元来、公益という社会全体の利益を追求する役所と、個人の利益を追求する民間企業では、異なる原理で運営されると考えられていました。しかし1980年代半ば以降、アングロサクソン諸国では、新公共経営（NPM）と呼ばれる民間企業の経営手法を役所にも導入し、仕事の効率化、成果の改善を図る考え方が出現し、日本でもこの考えが主流になっています。民間企業は儲かる事業を行うのに対して、役所は民間企業がやらず利益のでない事業を供給してきました。従って民間企業は効率性、利益を基盤に組織運営するのに対し、役所は平等性、公共性を理念に組織運営してきました。各国は福祉国家政策を採る限り、財政支出を削れず財政赤字が生じ、日本は最大の財政赤字国です。この新公共経営には①市場メカニズムの活用、②顧客主義、③業績評価による組織運営があります。
役所、公務員は、上述のとおり効率性だけではなく、有効性、平等性、安全性、満足度などの価値基準によって仕事を営みます。これらの基準は対立したり、ぶつかりあって、利益追求が最優先の民間企業と異なります。
これまで公務員が行なってきた仕事を民間に移管すると“コスト低下”“サービス向上”と言われますが、コスト削減の裏では非正規雇用者を採用し人件費を押えたり、サービスの質を低下させたりするケースもあります。
民間企業は料金を多様化すれば、サービスの質を変えられるものの、公務員は国民全体のサービスについて民間企業のように多様な価格設定はできません。また民間企業は売上・利益の関係で賃金を支払いますが、公務員の世界には売上・利益もなく、市場での競争もありません。公務員の労働条件を扱う専門機関である人事院は、民間企業の賃金を調査して、民間企業と釣り合うよう賃金を決定しています。地方公務員もそれに準じて、どこの自治体に勤務しても同額が支給され、身分保障が大前提になっています。
国家公務員（霞ヶ関）である官僚に対する世間からの厳しい指摘は、①省・局の利益優先、②政治への従属、③知的業務の減少などです。
今の日本では、金儲けができるかどうかで人の価値を測る空気が支配的です。すなわち、社会で成功している人を敬う風潮が強くなっています。営業利益や株価などといった数値化できない公務員は、大衆民主主義から敬意が薄らいでいます。しかし官僚機構の仕事には、法案の作成、利害調整、膨大な資料調査・作成、会議運営や政策執行など国家にとって重要な機能を担っています。

次に格差社会が及ぼす公務員への影響について言及します。中間層が大多数を占めていた曽っての日本社会では、受益と負担を巡って軋轢がなかったものの、貧困層が増えれば軋轢が生じてきます。税金を納めない貧困層は市役所の特別サービスを受け頻繁に利用します。市場では富裕層向けの上質なサービスが出回り、金で買えるモノ・サービスが増えました。この考えが強くなると、“役所はサービス業”という偏見が増えてサービスの質に対する要求が複雑化します。ザ・リッツカールトン東京のホテルは、一泊十数万円で極上のサービスです。しかし役所のサービスは無料もしくは低廉です。受益と負担を巡って行政サービスの根幹が揺らいでいます。自分の税負担と自分が受けている恩恵の因果関係が実感できないために、“もっともっと”にエスカレートする懸念があります。
格差社会の到来で中間層が激減すると、富裕層や貧困層への対応にシフトすることになり、行政サービスは全体的に低下します。特に貧困層のための生活保護などの社会福祉を中心とした行政サービスには、手間がかかり行政コスト増です。自治体にとって、どのような対応をしても、マスコミからの批判は避けられません。高齢率化の高い地域は地方であり、過疎化が進行しています。貧困、高齢化が絡むと、歳出が増えて税収が減ります。高齢者が必要とする医療、福祉、交通手段の確保など市場原理では調達不可です。
20世紀までのわが国の政策軸は、安全保障でしたが、経済成長の鈍化と高齢・少子化が進行すると共に、戦後以来はじめて内政問題である受益と負担のあり方が国論になる可能性があります。もはや公務員論や行政手法をはるかに超えて、政治のあり方、力量が国民の期待に応えられるかが問われる時代に突入します。
冒頭に紹介した公務員数が多いか少ないかの判断は、“受益と負担のあり方”との相関で考慮するのが穏当ではなでしょうか。

村井　徹
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         <pubDate>Thu, 10 Jun 2010 08:45:00 +0900</pubDate>
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         <title>時事問題（26）現代社会が失った大切なこと</title>
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―文化から捉える似て非なこと―

『世想雑感』シリーズNo．10（2006年10月）にて記述したとおり、現代社会は五無主義―無関心、無感動、無趣味、無気力と無責任―が20世紀末から社会学の見地で指摘されています。このことは、社会性としての人間関係が希薄になっていることに基因します。つまり、他人の気持や立場を理解したり、理解してもらえず、心の触れ合いや思いやりを育てず、人間関係の共感・共生の価値基準が失われたことにあります。

最初に“情操”を取り上げます。日本の教育基本法によれば、教育の目的は人格の完成をめざし、人格は自己支配と自己抑制―２つを括って自己抑制力―を高めるとしています。人間がもつ心の問題を中心に置き、情緒に価値を求めています。従って、初等教育では人間だけがもつ感情領域である情操の育成と、真善美聖の価値感情の認識にあります。他方、中等教育では生き方の価値や論理を知得して自己の確立を指向しています。人間は、新奇なもの、異常なものや美しいものに接すると、驚きを覚えます。驚きは、心に強い衝撃を与え、感性は揺さぶられ、その原因探求のため理性が働きます。この驚きが、学問や芸術の酵母になります。このように考えると、情操とは豊かなより高い価値に感動し、喜びを覚える心と言い換えられます。
日本で最初の哲学辞典は、井上哲次郎が明治14年に編纂した『哲学字彙』でした。情操（センシティビティ）という言葉が初めて登場し、それまでの日本には、情けはあって情操はありませんでした。日本人が漠然と心と表現する言葉について、西欧では次の３段階を規定し、順次発達するとしています。すなわち、最初に感情（エモーション）、次に情緒（センティメント）、そして情操です。さらに、情操には①美的情操②知的情操③宗教的情操④論理的情操があります。これらはいずれも、文化的、社会的な、高度で複雑な価値観を感じとる感情です。言い換えると、知識は客観的な普遍性と妥当性であり、そこから判断が生まれ、体系化されて、感情が個人的に加味され、情操へと発展します。おぞましいことは、偏った情報を知識として教え込むと、正常な感情は育たず、まして美的・知的情操は育ちません。
上述の知的情操は、『時事問題』No．14（2008年4月）でも記述したとおり、教養は単なる知識の記憶でなく、ものごとを考え、それを通じて道徳感情や情緒を含めた人格全体を培います。このことは、無償で味わう幸福感であり、虚無主義に陥りません。そういう意味合いで、近年大学教育の場で教養教育が取上げられ、幅広い知識や人格形成を重視、いわゆる人間力の高揚と社会人としての基礎力を滋養しようとする喜ばしい潮流があります。

次に取り上げることは、“言葉と概念”です。欧州語は、約5千語で90％の相互理解が可能なのに対し、日本語は擬態語、擬情語が多く、１万語ないと日常生活が成り立たないと言われています。このことは、日本人の繊細さとか識別能力が優れているのでなく、概念として言葉が欧州語に比べて少ないようです。また、事柄でも定義することが希薄です。日本人は、何事も簡潔、明快よりも回りくどい表現が好まれて、断定的物言い、表現は嫌われます。概念とは、ものごとの本質を捉える思考法で言語化されて意味をもち、定義とは、その概念の内容を限定することにあります。すなわち、概念があるから定義できます。日本語は概念を定めないままに、外来語を輸入しています。笑い話ですが、ステイタスは社会的な地位や身分であるものの、その概念が抜け落ちてルイ・ヴィトンになり、そのハンドバックがステイタスという珍奇な解釈が成り立ちます。
日本人は、人生の意味を問うても、人間の意味を問わないまま生きています。個々の物質的な人生は満たされても、自分の人間性を吟味するのは稀です。マズロー（1908－1970）の欲求理論が最も有名ですが、『動機づけと人格』の中で人間特有の能力とは何かを定義づけて①物事を抽象化する能力②文法にかなった言語を使用できる能力③哲学（考える）する能力と指摘しています。

最後に取り上げるのは、“コミュニケーション”です。伝達と訳されますが、英語の語源は、ラテン語の他者と分かち合うという意味です。何よりも大切な要件は、相互の確認が行なわれ、合意による義務と奉仕の意識も含まれます。企業でのコミュニケーションに及べば、人にものごとをうまく説明することや、日頃から報告・連絡・相談により信頼関係を築くことにあると思われています。本来の意義には、組織全体の判断力を高めるための情報の共有化です。すなわち、ある状況について関係者が共通する認識をもつ職場環境づくりです。
日本人は、「論より証拠」というように、論争、争論、論戦という論の字がつく日本語に反感を誘います。口論は、言葉による喧嘩ですが、師と弟子たちの間柄は、師の言葉を仰せごもっともと聞き、師をあがめる風土があります。それは、今でも教える側と教わる側の不文律で、先生に楯突くのは師の方でも許し難い権威主義・事大主義があります。一方、西洋では論争こそが学問発展の礎でした。その世界で不動の地位と名声を得た人に対してさえ、論争、論破は学問の倣いでした。アリストテレスにとって、師のプラトンは、論敵で弟子の地位は不動です。

安易に国際化の時代と言いますが、日本人の言葉と意味の不連続性、国語の衰退、情操の消滅、知性の壊滅等を甚く感じている此頃です。このことを一語で括れば、人間性というヒューマニティではないでしょうか。

村井　徹]]></description>
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         <pubDate>Fri, 09 Apr 2010 09:00:00 +0900</pubDate>
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         <title>時事問題（25）人口減少高齢化による社会構造の変化</title>
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―経済・企業そして働き方―

人口学によれば、高齢化率（全人口に占める65歳以上の人口比）が7％を超えると“高齢化社会”と称し、14％を超えると“高齢社会”です。日本が7％を超えたのは1970年、14％を超えたのは94年でした。その期間は僅か24年であり、独の40年間、英国の47年間に較べて短期に移行しました。また米国は1942年に7％を超え、約70年後の現在でも高齢化率は12.5％に留まっています。
高齢化は先進国に共通するものの、日本の急速な推移は、戦後平均寿命が劇的に向上したことと、所得水準、食糧事情や生活環境の改善等が寄与したわけです。今後も日本は最も高齢化した人口をもつ国となり、その速度を持続していきます。
人口問題研究所の推計では、子でもを生む可能性の高い25～39歳の女性人口は、今後四半世紀で2／3以下に縮小するようです。これまでの少子化問題は出生率の低下であったものの、これからのそれは子どもを生む可能性の高い世代の女性人口が急激に減少するためです。しかも2033年までの25～37歳の女性人口は既に確定しています。

一方、人口減少と言われているように、前述の研究所推計では、2030年に1億790万人と2000年に比して、1,760万人（△14％）、2050年に8,470万人（△32.4％）となっています。このことは半世紀間で人口増加と同数の人口減少を経験することになります。
「人口減少経済」では、需要と労働力の縮小に見合う形で生産能力が低下します。2009年11月、民主党政権は“デフレスパイラル”に入っていると発表しましたが、基本的には賃金総額が需要の大きさを決めるため、賃金あるいは雇用減により現実の需要を一層縮小させて、生産能力を落とし投資も縮小し、その結果一段と需要を縮小させます。戦後の日本では過去２回、デフレスパイラルがありました。最初は1970年代の石油危機後で、２度目は90年代後半以降で、いずれの場合も主要因は賃金抑制でした。企業は体力を維持するため賃金を抑制し内部留保の拡充を図ったためでした。
2008年からの不況とは、需要（特に輸出）の縮小が原因であり、生産能力に見合う需要が得られないために企業経営が悪化しました。需要が縮小する理由は、投資ブームや消費ブームが終ったところにあります。
これに対して「人口減少経済」では、最初に労働力の縮小によって生産能力が低下し、上述の不況のように造れるのに売れないではなく、以前のように造ることが出来なくなることが企業の売上高減少の理由です。つまり、不況による経済の縮小が需要側から起るのに対し、人口減少による経済縮小は供給側から起きる違いがあります。
以下、人口減少と高齢化がもたらす社会構造の変化を次の３つの要旨で記述します。

①経済成長率が低下、経済縮小に向かう
総国内生産の大きさは労働生産性と労働者数によって決まり、労働生産性は技術水準によって決まります。従って、経済が縮小するのは、技術進歩による労働生産性の上昇率より労働者数の減少率が上回るからです。また年金を負担する年代人口が減少することにより現年金制度を維持できず、給付水準なり負担率の調整が必要になります。何故ならば収入と支出の格差は、2010年以降急速に拡大傾向にあるからです。さらに、人口減少の対策として外国人労働者を活用すべきという主張があるものの、賃金コスト削減という対症療法的な姿勢では年金支出の悪化につながります。
社会も経済も今日まで基本的には人口増加を前提に成り立っています。すなわち個人の生活設計、企業の経営方式、国の政策等は人口増加を前提とした経済社会を基盤にした人口増加型経済です。総国内生産の大きさは需要の大きさと等しくなり、労働力の縮小によって需要も縮小、経済がマイナス成長になります。マクロの経済全体の規模からミクロの国内１人当たりの経済規模、すなわち生活視点から経済をみることが重要になり、生活水準が社会としての豊かさにあることが重視されます。
②企業はスリム化
経済には貯蓄・投資バランスというメカニズムがあり、人口の高齢化により働く人の割合が低下するため、国民全体としての貯蓄余力が低下します。このことにより産業構造の変化は必至であり投資財産業が衰退し、代わって消費財産業やサービス産業が伸びます。一方、消費行動は多様化し企業間関係は独立した並列的関係が強くなります。そして人口減少経済下の新しい経営ルールが生まれます。日本企業は売上高拡大を最優先の経営目標としましたが、欧米各国では企業の優劣は利益の大きさ、あるいは利益率の高さで判断します。
企業経営、とりわけ製造業は生産能力の計画的かつ適切な縮小が基本であり、その場合、付加価値率の向上によって企業の利益率を高めることが肝要になります。
③人口減少下のライフスタイルの多様化
年功賃金制が崩壊した今、能力給に移行するにつれ、「能力」が重視されています。この能力とは、㋑ある職務に従事し得る能力、㋺その職務をより上手くこなせる能力から成り立っています。前者を“スペシャリティ”と呼び、後者を“スキル”と呼びます。スキルによる賃金水準の格差は、スペシャリティによる賃金の格差に比べて小さいと推測できます。今後はスペシャリティに基づき賃金体系が変化し、この能力を身に付けてより上方を目指し続ける人、他の企業でも通用する普遍的なスペシャリティが重視されます。こうした上昇志向に対して、もう１つのタイプは、むしろ働かない自由を謳歌しようとする人々でフリーター的な就業形態です。これら２つのタイプの間に種々なバラエティがあり、今後予想される前述の年金制度の変化が、その多様性を一層促進していきます。

戦後の日本は、国民全員を経済的に豊かにするという共有財産がありました。経済の根源としての企業がカイシャという小社会の形態を成し、国民皆んなという考え方を強めました。しかしこれからはその共有財産が増加せず、むしろ余暇時間が確実に増加していきます。このことは分業と労働生産性の上昇という成果です。個人をベースに就業形態やライフスタイルにより、余暇時間にどれだけの価値を引き出すかです。
曽つての日本の街づくりは、経済活動に基づきつくられていましたが、欧米に見られるように街の中心に広場があり、商業施設と違った住民意識が強まるものと推測できます。また地方は田舎ではなく、自然環境に恵まれた田園・里山という生活空間が高齢者だけではなく若い人にも魅了します。里山とは50年前、碩学の京大名誉教授故四手井氏が語源の生みの親でした。森林の破壊や生物の絶滅が加速度的に進む現在、自然を単純化しない森林生態の必要性が高まります。
括れば、人口減少経済下では国民から個人や住民といった意識が芽生えて、新たな豊かさを育んでいくとの思いです。

村井　徹
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