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ものの見方・考え方(10)日本語について 2009年04月20日 09:00

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−戦後から今日までの変遷−

昭和21年、小説の神様といわれた志賀直哉が“日本語は不完全かつ不便で、文化国家になるため日本語を捨てるべきだ”と言いました。また憲政の神様といわれた尾崎行雄も24年“日本語を廃止して英語を国語にしなければ民主国家にならない”と発言しました。
当時、GHQは教育使節団を米国に要請し、教育制度改革と同時に日本語もそのものの、特に表記法について勧告しました。その内訳は(1)漢字制限する(2)仮名表記する(3)ローマ字表記する−これら3つの内、いずれかを選択することでした。日本の選択は、漢字制限による漢字仮名まじり文の表記方法に決定したという経緯があります。
昭和21年、当用漢字は1,850字に制限され、現代仮名づかいが告知され、23年に教育漢字881字が追加されて教科書漢字が計1,360字。それ以降では57年に常用漢字表1,945字が定められました。その後は規制緩和とともに修辞学や美学上、漢字が追加されて、むしろ仮名表記から漢字主義が主流になりました。
新たな問題は60年代からの日本語ワープロ・ソフトの登場でした。漢字は“書くもの”ではなく、キーボード操作により漢字変換で“でてくるもの”になったことです。そのためにどうしてこの語を漢字変換するかという基本認識が欠如しました。
機械的処理によるこの表記は工業規格であり、文部省や文化庁を離れて経済産業省(当時は通商産業省)の所轄です。この情報処理で使用する漢字は第一・二水準の漢字6,400字でしたが、それ以降27,484字に拡張されました。因に中型の漢和辞典ですら10,000字前後、新聞・雑誌の使用量は4,000字程度で、高校までに取得する漢字は2,000字で当に異常です。これらのことは、日本語という言語がどういうものなのか、正規の日本語はどこにあるのかといった議論が失せて、正書法(例えば“損なう”が“損う”のどちらか)もあやふやになりました。文字のある文化には必ず正書法があります。
今や日本語は自分の名前すら、漢字、ローマ字、平仮名、片仮名で表記できて、これは個人の習慣と趣好になっています。
各官庁で審議会や懇談会で提言されるものの、今後日本語をどうするかについての全体指針はありません。

言葉とは料理や服飾のように文化的所産で、文字は言葉を写す鏡です。言葉が文化であることは、伝達段階から思考を活発にし、それに相応しいものとして変化していきます。
近代の言語学は、言葉の歴史を系統的に跡づけることにより、現在の姿にどう至ったかを明らかにしました。
日本人は言葉の意味を曖昧にしがちです。社交、文芸の世界では都合のよいこともありますが、政治、経済、科学技術といった世界では通りません。言語の使い方には2通りあり、1つは規定的、もう1つは呪術的な意です。例えば“守旧派”“普通の国”“地球にやさしい”がありますが、誰もがそう言っているだけで意味不明です。
明治時代に外来語を導入したとき、翻訳主義で漢字を当てて定義づけに苦闘していました。自由、平和、人権、人類愛などがその例です。戦後は仮名表現で定義もせず、そのまま映画タイトルのように使用する有様です。

英語を喋れるということは、単にコミュニケートするだけでは不十分です。日本人は“一応”“どうも”“その節”といった曖昧な言葉に使い慣れています。国際の場では論理的思考で表現する能力が問われ、日本語を英語に直訳しても、それは無理です。思考は言語に    拠るしかなく、文化はその母語から生み出されて再生産されます。
現代の若者が言葉を失っているのは、言語教育のあり方や新聞・雑誌による文字との語いの不統一さからくる破壊が負の方向に効いており、敬語や慣用句の誤使用などを浮彫りにしています。
米国や英国の語学教授から聞いた話では、日本人の語学研修生が日本語を勉強してこなかったために、何時までもあやふやな英語しかできないそうです。日本語学習こそが基礎です。
国語教育の根幹は、子どもが自我に基づいて独自の意見をもっているか、その意見を屁理屈ではなく、論理的に展開しているかです。これがあってこそ、個性を伸ばす教育が可能になります。英語を話すのが苦手なのは、英語力がないためではなく、話す中身がないからです。小学生に英語を教えることよりも、日本語で語る中身の充実を図ることが先決ではないでしょうか。

村井 徹

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時事問題(20)経済主流社会を問う 2009年04月10日 09:10

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ー非経済価値の重要性ー

社会風潮をみると“金で買えないものはない”“金がすべて”といった信奉者が登場するほど現在の日本は極端に経済の価値だけが肥大化しているのではないでしょうか。
米国では成功は金であり、かつ贅沢という図式です。世界で最も住みやすいノルウェーは暮らしそのものに価値を求め、インドでは富とはよい行いの報酬であり、幸福は富を棄てて社会的義務を果たすときと考えます。
何故日本で拝金的な考えが跋扈したかを辿っていくと、やはり米国に起源があります。米国は1990年代にIT技術と金融工学により、資本自由化とグローバル化の波に乗って、ヘッジファンドなどの金融機関が通貨、株式、債権、土地などの全てに投資し、こうした投機マネーが空売りにより、実物経済を左右するようになりました。このことは小さな市場に世界の資本が集まり、その国の経済はバブルになり通貨価値は急騰したり暴落します。
97年タイのパーツに始まったアジアの金融危機、98年ロシア発世界金融危機は、お金、すなわち金融が先行して実物経済を変えました。日本でも山一證券や日本長期信用銀行などはこの荒波で消滅し、90年代は正に金融の時代と言えます。さらに2007年には米国の信用力の低い個人向け住宅融資(サブプライムローン)が世界規模で問題化しました。
上述の状況下で、日本人が拝金主義に陥ったのは、民主主義で個人主義が利己主義に、合理主義も損得主義で捉えられたことに基因しています。江戸時代にも経済合理性を追求しましたが、そこには旧財閥の家訓にあるように資本の論理と倫理に近い商道の両方が釣り合っていました。金儲けをするために手段を選ばないという考えを是認すれば、種々の禍根を残します。

健康で文化的な生活を営むために、財やサービスをある程度購入する経済力が重要であっても、金銭とは独立した価値も不可欠です。非経済価値とは、人格、教養、信仰、家族、友情、文化、芸術などの価値を言います。つまり人間社会です。欧州の国々には国有の歴史や文化を経済効率より優先させたり、ヒマラヤの小国ブータン王国は独自の伝統文化を守り、国民総生産よりも国民総幸福量を重視しています。資本主義の権化である米国でも経済価値と拮抗するように慈善行為の価値が尊重され、ボランティア活動と寄付が盛んです。ボランティア活動は誰もが毎週土曜日に行い、その規模はGDP換算で10%超です。一方個人寄付金は年間国民1人当たり、約86,000円(日本は1,700円)です。このように米国では慈善という価値が社会活動と人々の生活の中に根づいています。

金で買えないものに思い巡らせない人々で構成される社会は、社会の仕組みやルールは経済的合理性を軸に組み立てられます。そのような社会では、政府も企業も教育者も大人も子どもも単なる経済的行為として仕事と日常生活を営みます。社会は経済的合理性か否かで判断されて、正しいと見做されます。経済以外の価値が意識から欠落すれば、耐震構造偽装事件やライブドア粉飾決済といった公益の奉仕や社会的公正の価値が失われるのも当然の結末です。一級建築士、公認会計士、税理士といったプロだけではなく、その弊害は医師にも弁護士にも経済的価値を尊ぶ風潮があります。最善の医療と経済合理性との葛藤は、病院経営の問題や医療制度改革の問題として社会問題化しています。また企業のM&Aや投資案件を手掛ける渉外弁護士事務所は、統廃合を経て大手中心で、若年の弁護士にとって最も人気があります。あらゆる分野で社会が経済に支配され、金儲けの合理性を重視する世の中は、正義と公正さが縮小し、自然の生き方や感覚からも逸脱します。

当コラムNo.14『教養とはなにか』(2008年4月)で記述したとおり、私の実体験から言えることは、欧州のエリート教育を受けた人たちは、ギリシア語やラテン語を学びギリシア神話に精通しています。広く教養を身につけるには、本をたくさん読むことで得られます。現代は物ごとの捉え方が非常に単純化され、白か黒かのデジタル思考・二元論が盛んです。学ぶことの基本は、知識の量(記憶も含めて)を増やせば、想像力・推理力は知識に比例します。知識量が多い人は複合的に物ごとを捉えられます。
生涯学習を踏まえて、知識社会で生きていくためには、優れた才能や技術のある人の価値が圧倒的に強くなります。このことは曽つての階級・階層社会と異なる実力主義です。自らの価値を高めるために、学習に積極的な投資をして専門的知識を身につけることでしょう。

日本の社会は明治以後、欧米化・近代化をモットーに国の制度・機構や教育などのハード面を改革しました。しかし近代化で出来なかった分野はソフト面の人間関係でした。主従関係や親子関係などは古いしきたりのまま生きづいています。明治10年にソサィエティが社会に、明治17年にインディヴィデュアルが個人という言葉に訳されました。しかし今日の日本では西欧と異質なものです。
今日の経済主流社会の中で、自分らしい個をどう確立するか自問自答するのも、楽しい思索の1つではないでしょうか。

村井 徹