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ものの見方・考え方(4) 2008年10月20日 10:02

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ー理性と感性ー

理性は論理、感性は情緒に置き換えられますが、一般的に論理は男性的な特性であり、情緒・直感は女性的なそれであると言われています。例えば人を説得するときに理屈が通っていれば、相手は多少反対があっても敢えて従います。これが男性社会の論理です。男性が概ね論理を行動の中心に置くのに対して、女性は情緒が主になります。当然ですが、男女共、論理と情緒の両方を持ち合わせていますが、どうしてもその比率に差異があるようです。
女性には子孫をつくるという生物的な使命があるために、本能的に身を守るとか、直感的に相手を判断する能力が伸びていったと考えられます。一方男性は外に出て獲物をとったり、作物をして食糧を得なければならない使命がありました。男女がいればこそ、互いに相手の特性を学ぶことが出来て、人間社会は成り立っています。

学問の世界でも、戦後に米国で“行動科学”が流行になりました。
その代表例がスキナーで遺伝子や体験などをコンピュータで分析し、環境下で人がどのような行動をとるかを究明しました。当に情緒より論理を重視。しかし米国がベトナム戦争に突入してから、物量と軍事力によりベトコンの潰滅を図りましたが成功しませんでした。米国政府に対しあるシンクタンクの人がベトナム人と接触し“ベトナム人はアメリカの介入を好まない”という情緒面に焦点を当て、少しずつ情緒に目を向けるようになりました。このことは従来の欧米の合理主義的な考え方が不自然で、情緒を抑えることは人間の行動の限界で、論理と情緒を同じレベルで取り上げることになりました。現下のイラクも同じことが言えます。

話は変わりますが、戦国時代の武将たちも藩という組織を運営するとき、人間の感情、情緒や嫉妬心とか功名心などを無視しませんでした。いつの時代でも人間を論理と情緒の側面から総合的に捉えるということです。人間の組織は論理と情緒から成り立ち、論理だけでは人は動かず、また情緒だけでは運営できません。しかし情緒なくしては組織は崩れます。

余談ですが、“嫉妬”は二文字とも女偏が付くため、女性の専売特許のように思われがちですが、嫉妬は人間の本性です。嫉妬しないと思われる人は、抑制力が強く慎重に隠しているだけです。女性の場合、相手が自分より優れている点にひけ目を感じたり、先を越されたりに恨み憎む“妬み”です。一方男性の場合、相手が自分より優れているのを恨み憎む“そねみ”です。タテマエ人間の男性は、日常生活で嫉妬を隠し、その行動は敵対となって表われ、それを受けて相手は憎悪から怨念で応戦します。
国際社会、日本社会、組織、友人知人そして男女など様々な関係の中で、人の行動には大義名分の背後に嫉妬が隠されて社会を動かす因子にもなります。

私が愛読する学者の1人に東大の山内昌之著『嫉妬の世界史』(2004年度版)があり、古代ローマからナチスドイツまでと日本の事例で嫉妬を解説しています。
シェイクスピア『オセロ』に「人間出来ることなら、嫉妬からだけは免れていたいものです!」があります。

村井 徹

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時事問題(17)知識社会と教育社会の迫間で 2008年10月10日 09:00

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ー中流層の崩壊が意味するものー

日本社会は戦後の30年間は、誰もが努力すれば物質的に豊かになれる時代で、自分で切り開いていく可能性が増える社会でした。しかし豊かさが一般化すると、“皆んなと同じであれば、食べていける。目立たずに皆んなと一緒が大切だ”とうい風潮を増長させました。そして過去のゆとり教育では、大人は子どもの頃は競争させない社会を希求し、公立学校で子どもの競争に否定的な教育が流行りました。その結果、競争の思いや方法も知らない人間をつくり、適当に周囲に同調し、自分がない外在価値観に依存しました。3年前から話題になっている格差社会の底流には、このような弊害があるのではないでしょうか。
知識は考える基盤であり、子どもたちの頭脳に考える土台をつくります。知識を学ばなければ栄養不良に育てて、よい子、賢い子、ものごとを創造できる子が育ちません。知的探究心のない教育は未来への扉を開く学びとは縁遠いものです。

バブル崩壊後、日本は能力主義に移行し、学歴社会はなくなったと言いますが、実態はそうではなさそうです。上場企業の採用実績を調べると、学歴を問わないものの、学力試験を課すことで、結果的に学歴の高い一流大学の学生しか採用していません。知識社会の到来とは、本当の意味で学歴社会です。一部の教育熱心な公私立学校と親だけが子どもに勉強させているのが現状です。現在進行中の新学歴社会は“これからは学歴不要”というタテマエの裏で行われています。この新学歴社会は知的労働者が社会の主役になり、知識が富を生み、社会を活性化させます。従って主な構成員は、知的労働者である医師や弁護士等のような専門職と知識を付加手段として仕事する人々です。
知識社会は、第3次産業・サービスの労働者と知的労働者の格差が一段と広がります。指示されたことをこなす単純労働は、ロボットやソフトウェアに置き換わったり、低コストの外国人労働者に代替されます。知識社会が進展すればするほど、システムや器械への投資が活発になり、結果として教育レベルの低い人のできる仕事は減少します。

フィンランドは義務教育卆業時での学力で2003年以降連続トップです。同国は租税負担と社会保障負担が約65%と日本の2倍近いものの、教育に関しては究極ともいえる機会均等が図られ、義務教育は給食も含め無料、通学タクシーも無料、大学院に至るまで全てが無料、大学生には奨学金と教育ローンがつき、家賃80%補助もあり、大学レベルの高等教育の進学率は70%超で、米国を賀凌する国際競争力を誇っています。一方日本の学力は、アジア諸国にも抜き去られ、北欧の国々の遥か後塵を拝しています。同国の子供たちが勉強する理由には、知に対する尊敬が社会全体にあるからだと言われています。勉強ができないことはカッコ悪く、できることはカッコいいということです。学校の先生も社会から尊敬されています。勉強は素晴らしいという意識が社会に共有され、テレビの人気番組は、討論、ニュースやドキュメンタリーであり、日本の親子で観て楽しむバラエティ番組とは隔世の感があります。
日本に欠けているのは、そうした知に対する思いでしょう。最近、教育心理学で注目されているのは、周りが勉強する環境だと勉強し、しないとさぼるという周囲の環境による動機づけです。日本の学力低下は高校や大学受験が容易になったことと、落第がないことも要因です。中流崩壊、格差社会を救う方法は教育にあります。欧米では機会均等のために、税金が高くなっても差しつかえないという暗黙の了解があり、景気が悪くなったり、増税ができかねる際には、福祉予算を削っても教育予算を維持します。

最近の国際教育到達度評価学会の資料によれば、日本の中学2年生の宿題時間は1時間で国際平均値の1.7時間より少なく、46カ国の最下位です。その代わりにテレビ・ビデオ等を見る時間は、2.7時間(平均値1.9時間)で最長時間です。また41%は学校外では全く勉強しない戦慄的な数字でした。青少年も含め、将来に夢も希望もなく、勉強しない、努力しない、働かない学習性無力感な人々が増えているようです。

製造業は、自国に消費者がいなければ、魅力的な輸出商品をつくろうとしてもつくれません。自国に消費する中流層(目安として40%超)がいてこそ、製造業は強くなります。現代の技術力は消費者の要求水準に合致する物がつくれます。中流層が厚く、消費者の知的水準が高い方が良い物をつくれます。また高くても良い物なら買う国民を抱えています。中流層が厚い国は、高品質の中流向け物をつくり、それが外国でも高い評価を得て輸出が盛んになります。企業経営の視点からみれば、単に安売りの価格競争に参加し、中国や東アジアに工場を造ってもブランド戦略に狂いが生じます。価格競争しなくても国際競争を維持し、ブランド力、企画開発力、技術力に支えられる企業価値が大切な時代です。

もう一つ言及すれば、政治や教育の場で愛国教育という言葉が使われています。歴史教育で自虐史観を脱却して、日本は正しく、悪くなかったのだと自己満足しても、何んの取りえもありません。本来、歴史教育を通じて史実と国民性を学び、鎖国後の近代化を成就した事象に自信をつけ、改めて勉強しようという気運になれば、愛国教育の意義があります。国を強くしよう、豊かにしようという目的よりも、儀礼的に国旗、国歌を義務づけようというのは手段が優先され、目的化している感がします。社会全体へのモデルがない愛国論は意味乾燥です。

最後に、民主主義とは、生まれによって差別することのない平等からスタートしますが、その後は人それぞれの能力を発見させます。正に能力主義です。能力は人それぞれに格差があります。その格差を前提にして、個人の能力と成果に応じて報酬を支払い、教育も選抜するという知識社会での企業人事が不可欠でしょう。

国家、教育、治安、生産性等に思い巡らすとき、日本社会の本当の強みみたいなものは、社会全体の強みであり、社会を皆んなで支えた方が、個人の幸せに通じるのではないでしょうか。

村井 徹

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