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仕事・忙中閑あり(その12) 2007年06月20日 17:29

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仕事・忙中閑あり(その12)

今回のテーマは「合理的判断力とは何か」です。合理とは理性を重んじることを意味します。 管理者にとって要求される能力にはいろいろありますが、最も重要な要素に判断力があります。これは必要な情報の収集とその情報を有効に活用する能力という合理的思考力によってもたらされます。そのために次の思考パターンが必須です。


3つの思考パターン
1、何が起こっているのか?
状況をはっきりさせるために、かつ正確に理解するために、無秩序、混乱を秩序だてる作業が第1歩です。これにより状況を構成要素に分けたり、問題解決の優先順位を決めたり、いつ、どのような方法によれば、よい結果をもたらす行動がとれるかを決められます。
“問題”とは現実の姿(実績値・成果)があるべき姿(目標値・狙い)より下回って、差異が生じることをいいます。
2、どうしてそうなったのか?
この段階で“原因と結果”すなわち因果律を問い、成果の低下の原因を追求します。
問題の結果を吟味すれば、その原因が分かりその問題を是正したり、影響を少なくする適切な行動がとれます。
3、どういう対応をすればよいか?
これは“選択”するために、特定の目的を実現する可能性の最も高い行動を定めるものです。選択には次の3つの行動パターンがあります。
(1)目的の決定−どのような目的をもって行動するか
(2)可能な選択肢−どうすれば目的を最適に達成できるか
(3)選択肢別のリスク評価−どの行動が最も安全か

上述の思考パターンは、普遍的でありどんな状況にも広く適用できます。こうした自問自答は、ものごとの対応の仕方、どうしてそうなったかの理由のみつけ方、より優れた選択の仕方や将来の予測の仕方を明らかにします。組織ではグループは恊働して仕事をすることによりチームとなり、チームワークが形成されます。

最後に“情報”について述べれば、確かにコンピュータは大量の情報を処理する一方、「事実と情報を確認する作業」と「情報から有効な何かを読みとる作業」は依然として人に頼
らざるをえません。企業は目的・目標あるいは課題化についてコンピュータで処理したデータを利用しますが、データを裏付ける事実まで確認しているかが問われます。データを鵜呑みにして誤った情報に基づいて思考しないよう十分に留意したいところです。

村井 徹


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時事問題(9)社会は不平等ですか 2007年06月09日 15:35

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—学校教育からの発想—

学校教育が社会問題になったのは、1980年代からの不登校、校内暴力や受験競争(偏差値)が取沙汰された頃でした。子どもたちは勉強に追いつめられているので、もっと“ゆとり”が必要であるとの世論も高まり、2002年4月から学習内容を3割削減した指導要領が実施されました。このゆとり教育は、日本独特の平等主義や差別を嫌う横並び主義に立脚しました。また国際比較で年間総授業時間は日本が一番少なくなりました。これに類する教育改革は既に1970年代の米国で実施され、失敗したにも拘らず、識者の反論を押えて日本が実施した経緯があります。世界の教育潮流は、国力向上のために子どもの学力を向上させ、その効果を統一テストで測定する路線です。
2003年度のOECD実施の「国際学習到達度調査」調査対象15歳、41参加国では、かつて世界一であった日本の学力は、各項目で2〜14位と奮いませんでした。2006年度以降、ゆとり教育が見直され、学力向上に再方向転換する有様です。

偏差値は学力測定値を本人に知らせて、学力向上の一助とする合理的な統計数値ですが、1990年代から公立学校から追放しました。従って公立学校の先生は、偏差値を基礎データとして進路指導することが不可能になり、進学指導の実権は私立学校、塾や予備校に移りました。
本人の学力を知ることは公正な競争です。全員が同じテストを受験し、本人の順位や偏差値というデータが本人自身にフィードバックされることは、最も直接的かつ効果的です。勉学で本人が同世代のどの位置にあるかを知らされるのは辛いでしょうが、若者が自分を知る第一歩です。この自分を知ることは、人が社会で生きていく第一歩です。社会に生徒を送りだす学校は、本人がどれ程の学力なのか、何ができ何ができないのか、そのレベルはどの程度か…を生徒に知らせる責務があります。

いつの時代にも、社会の不平等論が盛んです。結論から言えば、彼らが主張する平等は全体主義社会ですら実現不可なユートピア的社会観です。民主社会にとって自由と平等は重要な価値であるものの、社会経済からみれば、平等には機会均等、分配と結果の平等の3つがあります。現代社会は誰がどのような職業に就くかは本人の意志で自由に決められます。そういう意味で機会均等は保障されています。しかし不平等論者は、低賃金に甘んじて雇用されるしかない労働者にとって富の分配が不平等だと主張します。確かに現実の社会はその通りです。年収百万円の人もいれば、年収1億円超の人もいます。しかしこの差異は個人の能力差、努力差、稼ぐために費やした時間の違いです。親を選べない子どもは親の年収も含めて甘受するしかなく、それを不平等と言うのではなく、境遇です。そのことよりも子どもが親から影響を受けるのは、親の知性です。正に“親のレベルと子のレベルは比例する”からです。また“親の年収が低いと塾に行かせられないから、子どもの学力が低くなる”がありますが、親の年収が低いと塾に行かせられないのは事実です。しかし塾に行かなくても子どもが低学力にならないのも事実です。確かに子どもの学力と親の経済力には高い相関性があります。勉強ができないのは、本人の自覚、努力、責任であり、勉強に関心を向けさせない親の責任、勉強を是としない学校の責任ではないでしょうか。

人類が膨大な犠牲を払った20世紀の教訓は、ソ連の社会主義や欧州の高福祉社会により、分配と結果の平等という理想像が実現不可能であった事実です。前者は独裁、腐敗や人権弾圧をもたらし、後者は長期の経済停滞に陥り方向転換を余儀なくされました。人々が結果の平等を指向しても、自由と両立できるのは前述のとおり機会均等しかないようです。欧米では学歴社会や受験競争が社会問題にならず、教育を通じた競争が誰にでも平等に参加できない、あるいは生れ育ちによって教育の機会に不平等があった場合だけです。

“大学を卒業しても就職難でフリーターになる者が多い”と言いますが、それも事実であるものの、この情報が総体として事実でなさそうです。大学のレベルとフリーターになる率は相関があるからです。学歴と所得の相関も今後一層高まりましょう。学歴社会は身分(制)社会にとって代わった歴史があり、学歴社会の終焉はありえないとの思いです。
社会という共同体は、世の不条理を知り図太く生きる必要があり、その場が家庭、学校、職場です。人々は各々の持場で役割を担って競争社会を生き抜く知恵を身に付けるしかなく、不平等や不公平を声高に唱えても負け犬の遠声でしかならないのではないでしょうか。
平等という言葉には、人の努力とか向上に反する響きがあり、安逸を貪るような感がします。

村井 徹

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