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時事問題(28)日本の地域間格差 2010年08月10日 09:30

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―中央と地方の共生を求めて―

当コラムNo.13(2008年2月)にて格差社会を個人所得の視点から記述しましたが、平成に入って地域間でも格差が広がっています。例えば東京23区の殆んどの区は、中学校卒業までの医療費を無料化する一方、2007年に財政破綻した夕張市では住民サービスの質を全国最低水準まで下げて、多額の負債返済に四苦八苦しています。一般には財政状況が厳しい自治体では、高齢者向けの福祉サービスの個人負担額が増えているのが現実です。このように地域社会の崩壊は人心の崩壊、ひいては国全体の崩壊を伴っています。

平成の大合併により、約3,300あった市町村は半分近くに減少しましたが、その理由は国が元利償還金の7割を交付税として措置した合併特例債を活用したからです。2010年の国勢調査によると、ほんの一握りの人口増加自治体と大多数の人口減少自治体という二極化が進行して、財政力などで豊かな自治体と貧しい自治体が顕著になっています。前者は大都市やその周辺に限られ、後者は地方の農山漁村です。一方、雇用環境は中京圏の地方自治体では軒並み勝ち組となり、青森県や沖縄県などは負け組みです。しかし雇用環境で勝ち組であった中京圏の多くは、いわゆる3K(汚い、きつい、危険)を外国人労働者に依存して、外国人住民の割合は他の自治体よりも高く行政サービスの負担増です。このように相互に複雑な要因が入り組んで地域間問題は深刻化しています。
1990年代中頃までは、地域間格差があっても比較的均質な社会で許容範囲内であったものの、21世紀に入ってグローバル化の進展と規制緩和により、その許容限度を超えています。中央と地方、勝ち組と負け組みの自治体は対立するのか、あるいは共生するかは意見が分かれます。日本の人口は既に減力化し、大規模災害の危険性が指摘される昨今、地域間で助け合う、共助が必要であると共に、中央と地方が相互補完の関係を築くことも必要です。

最初に取り上げるのは「道州制」の問題です。道州制とは、明治以来130年近く続いた都道府県を廃止・統合して道や州に再編する構想です。地方制度調査会で検討され、前述の市町村合併に次いでの改革です。戦前の国の出先機関化していた都道府県は戦後に自治体化し、1957年以降、道州制が提言されてきましたが、法制化に至りません。この構想は国と地方のあり方を見直し、行政の効率性とコスト削減を求める広域自治体改革です。具体的には現在都道府県が実施している事務を大幅に市町村に移譲し、道州は広域事務を担う役割と国の出先機関が実施している事務を道州に移譲するものです。
政府の懇談会中間報告によれば、2011年に道州基本法を国会に提出し、2018年までに完全移行を目論んで、今後区割り(10ブロック前後の広域自治体)に議論が移ります。グローバル化が進展する中で、国際社会で自立した国家の役割は、外交、安全保障や生活保障などに注力し、内政事項は基本的に自主立法権をもつ道州と福祉などを基礎自治体に任せて、分権型社会を目指す狙いがあります。しかしこの実現に向けての課題もあります。何よりも国民的な議論が行われる仕掛けが必要ですが、地方の新聞社、放送局、銀行や各種団体がすべて都道府県を単位として組織化、運営されている現状では、それらの再編等に種々な影響を及ぼします。さらに日本の地方議会は国会議員制度を参考に地方議員制度が構築されました。英国のように執行権もなく、中途半端な位置付けです。また人口当たりの議員数も多く、処遇も高い有様です。英国が議会開催時の出席手当しか支給しないため、その報酬は日本の半分以下に対して、日本は定例会議を年4回開催し、2・4週間続き、地方議員は自営業、農業、建設業などの職種に偏っています。マスコミで話題になっている政務調査費の使い道も透明性に欠けています。

次に取り上げるのは「地方交付税」です。この原資は国税のうち、所得税の32%、酒税の32%、法人税の35.8%、消費税の29.5%、たばこ税の25%で合計2006年度16兆円を地方交付税として各自治体に配分され、各自治体の歳入の20%を占める重要な財源です。税財源が脆弱な市町村では大きな歳入ですが、小泉内閣の三位一体の改革で削減が続き、総額抑制だけが話題になり、地方の自助努力による行政改革を阻害している側面もあります。この議論は、削減したい財務省と守りたい総務省の対立だけではなく、中央と地方の財源争いでもあります。交付税や補助金は、既得権の問題ではなく、基本は全ての地域や住民に憲法が保障する最低限のサービスです。
現代の日本は、情報を中心とする諸機能が中央である東京に集中している偏りもあります。日本人はお上頼り、行政頼りの傾向が強く、既に限界に達しています。今やNPOやボランティア団体が世界的に注目を集めています。環境、福祉や街づくりの分野で行政を補完し、地域活性化に寄与する団体が全国各地で誕生しています。また企業の社会的責任や地域貢献も益々重要になっています。これらも地域活性化につながります。
バブル崩壊後もインフラ整備を進めるために、公共事業へ多額の税金が投入されました。確かに道路が整備されれば、雇用も増大し地域経済にもうるおいがあるものの、そのツケは多額の借金残高として後世に重くのしかかります。公共事業依存だけでは地域経済にプラスになりません。環境や国土保全に注力する方が地域の魅力を増します。

日本は古い歴史をもちながら、北海道から九州・沖縄まで大した変り映えのしない町づくり、町並みになっています。全国各地の駅前に乱立した○○銀座通り商店街(さびれてシャッター通り)があり、その土地柄の歴史、文化を主張していません。どの街も実用一点張りの規格品の建築物が全国津々浦々に同じ街並みをつくって、個性もなく奥行きのない経済原則に支配されています。
旧西独の敗戦後の都市づくりは、計画的に全国18都市毎に特色ある文化と景観をもち、独特な地域社会を形成しています。
地方が地域の個性を生かし、そこに暮らす人々が生きがいを見出せるような地域社会づくりが必要でしょう。中央が生みだす財源が地方を再生し、地方の再生が中央の生活を支える―経済的には中央ほど物質的・利便性では豊かでなくとも、地方に住む人々がその町に愛着と誇りをもって心の豊かさを実感できることが求められているのではないでしょうか。

村井 徹

時事問題(27)公官庁の評価基準は効率性か 2010年06月10日 08:45

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―市場原理主義がもたらす弊害―

2007年度末の公務員総数は400万人弱で、内訳は国家公務員数約92万人で、中央官庁・出先機関に所属、地方公務員数は約300万人が都道府県庁・市町村役場に所属しています。
キャリア・ノンキャリア、そして地方公務員を問わず、公務員全体に対するマスコミ批判が強くなっています。2007年-08年、年金問題で叩かれていた社会保険庁はその典型例でした。公務員バッシングの背景には、①度重なる不祥事、②少子高齢化、③財政赤字の累計、④労働者給与の減少、⑤市場主義の影響などです。
明治以来、日本は中央政府が国家計画を考え、それを全国一律に浸透させる体制でした。従って、地方自治体は中央官庁の計画を忠実に実行する機関でした。“機関委任事務”とは都道府県知事などが国の出先機関であり、国の定めた事務を処理、知事は選挙で選ばれた代表である一方、国の出先としての役割を求められました。今や中央集権から地方分権へと舵を切って、地方自治体の事務の裁量は増えつつあります。また、財政や組織運営面での自治体裁量権も増えています。しかし自治体にとって、地域に格差が生じ所属する自治体により賃金面の処遇が違っています。すなわち税収、物価、地元企業の給与水準が配慮されます。
近年、地方公務員の多様化に非正規の存在があります。市町村役場の窓口で対応する人にアルバイトの人が多くなっています。アングロサクソン諸国でも小さな政府を目指し、派遣や契約職員などが多くなり、日本でも非正規公務員が20%を超えています。
元来、公益という社会全体の利益を追求する役所と、個人の利益を追求する民間企業では、異なる原理で運営されると考えられていました。しかし1980年代半ば以降、アングロサクソン諸国では、新公共経営(NPM)と呼ばれる民間企業の経営手法を役所にも導入し、仕事の効率化、成果の改善を図る考え方が出現し、日本でもこの考えが主流になっています。民間企業は儲かる事業を行うのに対して、役所は民間企業がやらず利益のでない事業を供給してきました。従って民間企業は効率性、利益を基盤に組織運営するのに対し、役所は平等性、公共性を理念に組織運営してきました。各国は福祉国家政策を採る限り、財政支出を削れず財政赤字が生じ、日本は最大の財政赤字国です。この新公共経営には①市場メカニズムの活用、②顧客主義、③業績評価による組織運営があります。
役所、公務員は、上述のとおり効率性だけではなく、有効性、平等性、安全性、満足度などの価値基準によって仕事を営みます。これらの基準は対立したり、ぶつかりあって、利益追求が最優先の民間企業と異なります。
これまで公務員が行なってきた仕事を民間に移管すると“コスト低下”“サービス向上”と言われますが、コスト削減の裏では非正規雇用者を採用し人件費を押えたり、サービスの質を低下させたりするケースもあります。
民間企業は料金を多様化すれば、サービスの質を変えられるものの、公務員は国民全体のサービスについて民間企業のように多様な価格設定はできません。また民間企業は売上・利益の関係で賃金を支払いますが、公務員の世界には売上・利益もなく、市場での競争もありません。公務員の労働条件を扱う専門機関である人事院は、民間企業の賃金を調査して、民間企業と釣り合うよう賃金を決定しています。地方公務員もそれに準じて、どこの自治体に勤務しても同額が支給され、身分保障が大前提になっています。
国家公務員(霞ヶ関)である官僚に対する世間からの厳しい指摘は、①省・局の利益優先、②政治への従属、③知的業務の減少などです。
今の日本では、金儲けができるかどうかで人の価値を測る空気が支配的です。すなわち、社会で成功している人を敬う風潮が強くなっています。営業利益や株価などといった数値化できない公務員は、大衆民主主義から敬意が薄らいでいます。しかし官僚機構の仕事には、法案の作成、利害調整、膨大な資料調査・作成、会議運営や政策執行など国家にとって重要な機能を担っています。

次に格差社会が及ぼす公務員への影響について言及します。中間層が大多数を占めていた曽っての日本社会では、受益と負担を巡って軋轢がなかったものの、貧困層が増えれば軋轢が生じてきます。税金を納めない貧困層は市役所の特別サービスを受け頻繁に利用します。市場では富裕層向けの上質なサービスが出回り、金で買えるモノ・サービスが増えました。この考えが強くなると、“役所はサービス業”という偏見が増えてサービスの質に対する要求が複雑化します。ザ・リッツカールトン東京のホテルは、一泊十数万円で極上のサービスです。しかし役所のサービスは無料もしくは低廉です。受益と負担を巡って行政サービスの根幹が揺らいでいます。自分の税負担と自分が受けている恩恵の因果関係が実感できないために、“もっともっと”にエスカレートする懸念があります。
格差社会の到来で中間層が激減すると、富裕層や貧困層への対応にシフトすることになり、行政サービスは全体的に低下します。特に貧困層のための生活保護などの社会福祉を中心とした行政サービスには、手間がかかり行政コスト増です。自治体にとって、どのような対応をしても、マスコミからの批判は避けられません。高齢率化の高い地域は地方であり、過疎化が進行しています。貧困、高齢化が絡むと、歳出が増えて税収が減ります。高齢者が必要とする医療、福祉、交通手段の確保など市場原理では調達不可です。
20世紀までのわが国の政策軸は、安全保障でしたが、経済成長の鈍化と高齢・少子化が進行すると共に、戦後以来はじめて内政問題である受益と負担のあり方が国論になる可能性があります。もはや公務員論や行政手法をはるかに超えて、政治のあり方、力量が国民の期待に応えられるかが問われる時代に突入します。
冒頭に紹介した公務員数が多いか少ないかの判断は、“受益と負担のあり方”との相関で考慮するのが穏当ではなでしょうか。

村井 徹

時事問題(26)現代社会が失った大切なこと 2010年04月09日 09:00

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―文化から捉える似て非なこと―

『世想雑感』シリーズNo.10(2006年10月)にて記述したとおり、現代社会は五無主義―無関心、無感動、無趣味、無気力と無責任―が20世紀末から社会学の見地で指摘されています。このことは、社会性としての人間関係が希薄になっていることに基因します。つまり、他人の気持や立場を理解したり、理解してもらえず、心の触れ合いや思いやりを育てず、人間関係の共感・共生の価値基準が失われたことにあります。

最初に“情操”を取り上げます。日本の教育基本法によれば、教育の目的は人格の完成をめざし、人格は自己支配と自己抑制―2つを括って自己抑制力―を高めるとしています。人間がもつ心の問題を中心に置き、情緒に価値を求めています。従って、初等教育では人間だけがもつ感情領域である情操の育成と、真善美聖の価値感情の認識にあります。他方、中等教育では生き方の価値や論理を知得して自己の確立を指向しています。人間は、新奇なもの、異常なものや美しいものに接すると、驚きを覚えます。驚きは、心に強い衝撃を与え、感性は揺さぶられ、その原因探求のため理性が働きます。この驚きが、学問や芸術の酵母になります。このように考えると、情操とは豊かなより高い価値に感動し、喜びを覚える心と言い換えられます。
日本で最初の哲学辞典は、井上哲次郎が明治14年に編纂した『哲学字彙』でした。情操(センシティビティ)という言葉が初めて登場し、それまでの日本には、情けはあって情操はありませんでした。日本人が漠然と心と表現する言葉について、西欧では次の3段階を規定し、順次発達するとしています。すなわち、最初に感情(エモーション)、次に情緒(センティメント)、そして情操です。さらに、情操には①美的情操②知的情操③宗教的情操④論理的情操があります。これらはいずれも、文化的、社会的な、高度で複雑な価値観を感じとる感情です。言い換えると、知識は客観的な普遍性と妥当性であり、そこから判断が生まれ、体系化されて、感情が個人的に加味され、情操へと発展します。おぞましいことは、偏った情報を知識として教え込むと、正常な感情は育たず、まして美的・知的情操は育ちません。
上述の知的情操は、『時事問題』No.14(2008年4月)でも記述したとおり、教養は単なる知識の記憶でなく、ものごとを考え、それを通じて道徳感情や情緒を含めた人格全体を培います。このことは、無償で味わう幸福感であり、虚無主義に陥りません。そういう意味合いで、近年大学教育の場で教養教育が取上げられ、幅広い知識や人格形成を重視、いわゆる人間力の高揚と社会人としての基礎力を滋養しようとする喜ばしい潮流があります。

次に取り上げることは、“言葉と概念”です。欧州語は、約5千語で90%の相互理解が可能なのに対し、日本語は擬態語、擬情語が多く、1万語ないと日常生活が成り立たないと言われています。このことは、日本人の繊細さとか識別能力が優れているのでなく、概念として言葉が欧州語に比べて少ないようです。また、事柄でも定義することが希薄です。日本人は、何事も簡潔、明快よりも回りくどい表現が好まれて、断定的物言い、表現は嫌われます。概念とは、ものごとの本質を捉える思考法で言語化されて意味をもち、定義とは、その概念の内容を限定することにあります。すなわち、概念があるから定義できます。日本語は概念を定めないままに、外来語を輸入しています。笑い話ですが、ステイタスは社会的な地位や身分であるものの、その概念が抜け落ちてルイ・ヴィトンになり、そのハンドバックがステイタスという珍奇な解釈が成り立ちます。
日本人は、人生の意味を問うても、人間の意味を問わないまま生きています。個々の物質的な人生は満たされても、自分の人間性を吟味するのは稀です。マズロー(1908-1970)の欲求理論が最も有名ですが、『動機づけと人格』の中で人間特有の能力とは何かを定義づけて①物事を抽象化する能力②文法にかなった言語を使用できる能力③哲学(考える)する能力と指摘しています。

最後に取り上げるのは、“コミュニケーション”です。伝達と訳されますが、英語の語源は、ラテン語の他者と分かち合うという意味です。何よりも大切な要件は、相互の確認が行なわれ、合意による義務と奉仕の意識も含まれます。企業でのコミュニケーションに及べば、人にものごとをうまく説明することや、日頃から報告・連絡・相談により信頼関係を築くことにあると思われています。本来の意義には、組織全体の判断力を高めるための情報の共有化です。すなわち、ある状況について関係者が共通する認識をもつ職場環境づくりです。
日本人は、「論より証拠」というように、論争、争論、論戦という論の字がつく日本語に反感を誘います。口論は、言葉による喧嘩ですが、師と弟子たちの間柄は、師の言葉を仰せごもっともと聞き、師をあがめる風土があります。それは、今でも教える側と教わる側の不文律で、先生に楯突くのは師の方でも許し難い権威主義・事大主義があります。一方、西洋では論争こそが学問発展の礎でした。その世界で不動の地位と名声を得た人に対してさえ、論争、論破は学問の倣いでした。アリストテレスにとって、師のプラトンは、論敵で弟子の地位は不動です。

安易に国際化の時代と言いますが、日本人の言葉と意味の不連続性、国語の衰退、情操の消滅、知性の壊滅等を甚く感じている此頃です。このことを一語で括れば、人間性というヒューマニティではないでしょうか。

村井 徹