コラムチャンネル
みんなのコラムチャンネル。カンケンのイベントニュースや村井徹監査役のコラムなどをお伝えします。
2012年を迎えて 2012年01月05日 09:00

リーダーの役割り―挑戦こそが事始め

企業に生命力がある限り、健康状態が露見します。活気があったりなかったりします。特に厄介なことは、組織は同質化しやすく内部で異常なことが起きても放置されます。その要因には、組織・チームと社員自身に次の不備があるためです。
(1)外部状況が変わっても、過去の成功パターンに依存している。
(2)不測事態が発生しても、自分の過去の失敗パターンを避ければよいとの思いで、思考を停止している。
(3)他人の成功パターンを認知しても、失敗パターンに関心がなく分析・応用ができない。
(4)新しい解決策などないと逃避して、問題・課題の解決に取組まない。

次に、リーダーが組織・チームを活性化するために次の4つの施策が重要です。
(1)組織・チームが淀まず革新的であるために、異能(多能)な人を登用して仕事を段階的に委ねる。
(2)組織目標(値)に向けて、“仕事をつくれる人”を選別して実行させる。
(3)自分の独自な考え方(独断・暴走ではない)で実行させ、成果を評価して処遇する。
(4)実行できる人を孤立させず活動できるよう、組織化する。

低成長・低労働生産性である日本では、マネジメントは自らの意志で自分の言葉により主張できる自立型が必要です。ビジネスには、リアリズムのない人は不向きです。
人は出来ることを求めますが、新しいこと、出来ないことへの取組みが大切です。自分にとっても、企業にとっても成長とは、出来なかったことが出来るようになることにあります。2年前に掲げた「挑戦」です。

時事問題(36)羞恥心とはなにか 2011年12月09日 09:00

hito_b.jpg


―社会心理学からのアプローチ―

文化としての日本人論は、1948年に米国の文化人類学者であったベネディクト著『菊と刀』が敗戦直後の原典でした。これは、日本人の精神構造の分析で“義理”と“恥”を特質化しました。その後日本人の心と恥について西洋比較文化論として、多数の著書や論文が発表されました。
恥や羞恥心について思い巡らすと、旧約聖書のアダムとイブにも恥がでてきますし、西洋文化圏と交流のない少数民族にも恥の感情があります。しかし日本では1990年代後半から街中で見られる様々な行為―電車内や道端に座る、電車内で化粧や飲食するなどーすなわち逸脱した行動が、どうして日常見られるようになったかを社会心理学の視点から読み解くのが今日のテーマです。

江戸時代、国民の80%が農耕生活であり、代々受け継いできた田畑を守り、人と人との親密さを決定づけたのは、血縁と地縁でした。いわゆる身内関係であり互いに支え合っていました。旅に出れば他人の世界であり“旅の恥はかき捨て”と言うように他人を気にする必要は低く必要も感じなかったようです。日本人が恥ずかしさを感じる相手は、身内と他人の間に依存する中間的な世間でした。すなわち、同じ村落に住む人々など地域社会との関係であり、習慣・ルールが成立して継承されていました。
江戸時代から明治期に入って、社会秩序を乱す行為は批判を浴び村八分が増えました。このように世間の目を気にする動向は、現代でも社会の根底を支えて“世間の常識”として生きづいています。しかし一方では、近所と仲良くする考えが薄れて、気遣う感性が乏しくなりました。失態を見られても実害はなく、人の視線に無頓着です。大勢の人々が集う公共空間で好きなように振舞い、ジベタリアンも地域社会の他人化の影響です。世間の基準に代って“自分本位の基準”すなわち他人への配慮ではなく、自分の利益を回避することを目的とし、自分の感性や利害を優先し自分の利益につながる他者を利用します。正に無関係な他人同士です。羞恥心は個人が社会から排除されないための仕組みです。何を恥ずかしいと感じるかは、個人がどの集団に留まりたいかによって変わります。

唯一神が人の心の中で占めるキリスト教やイスラム教の世界では、宗教的な規範を人々が共有しています。規範に背けば社会の批判は免れません。世間の目ではなく神の目を意識します。従って、彼らは内面的な罪や恥の意識を育んでいます。一方、日本人には唯一神がなく、基本的な社会ルールは人間関係の中でつくられます。そのために、その時代や社会情勢によって規範が変化します。恥しさは環境要因によって大きく影響され、どの程度の恥らしさを感じるかは、自分を評価する人との関係によって決まります。つまり、相手次第で羞恥心の働きは変化します。今の街中の状況を見るにつけ、本来恥意識を規定した地域・共同体社会の影響力は薄れています。ジベタリアンが現れる公共空間は、他人同士が集う場所となり、周囲の視線を気にしない自分本位の基準の台頭です。特に共同体社会と無縁なあるいは少ない若年層にとって、無関係な他者の中で羞恥心という社会的警報装置が起動せず、彼らの基準に則っているからです。1990年代以前では、親は社内で騒ぐ子どもを“そんなことをしていると、みんなに笑われるよ”と諭しました。嘲笑という親も恥をかきたくないとの思いで悪さをやめさせました。しかし今や“そんなことをしていると、誰かに怒鳴られるよ”と子どもに注意します。このことは大声を出したり、怖そうな人が場を制するという他人社会の論理で、恥しさを覚えたのではなく納得を強制する決め方です。欧米では“そんなことをしていると、みんなに迷惑ですよ”と注意します。これは善悪が判断基準です。

確かに、私たちは新たな共同体である職場、業界、政治経済ネットワークや最近のようにウェブ社会を構築しています。この新しい世間に属していれば生きていけます。しかしウェブは、誰かと繋がっていても顔を見合わせる機会がありません。見知らぬ人である他者の視線を気にする必要がなく、羞恥心の領域は特定の人間関係という狭い自分の領域に集約されます。他者との関係は、気が向いたときだけパソコンでチャットするだけでは狭くなります。若年層の心の構造は、他者からどう見られるかを感知するセンサーが働かず、見ている私たち側が不快に思ったり批評しようが無関心です。彼らが恥しいと感じるのは、若者らしくない姿や行動です。若さの証明として成人することに嫌悪感があり、流行への関心も高く自己アピール欲求も強いようです。若さを失うことは、価値観を共有している仲間から疎まれ仲間はずれされる危機をもち、彼らの羞恥心は同年代の仲間に対して強く作動します。
私たちは日々自分に気を配って生活しています。仕事がうまくいったり、人に褒められたりすれば、自尊心は高まり叱られれば自己嫌悪に陥ります。外界の変化だけではなく、自分の姿に対して敏感に反映します。羞恥心は社会で生きていく装置であり、この装置は万国共通です。

次に中高年層の羞恥心に言及すると、“今更、恥しいことなどない”“この期に及んで格好をつけない”と言います。確かに他者から自分がどう思われるかを気にするのは、思春期から青年期がピークで他者からの評価や羞恥心も活発に作動します。
一般的に、年齢を重ねて社会の中で自分の居場所が定まれば、さほど人目を気にせず羞恥心が衰えるという俗説があります。
最近の調査では、年齢が高いほど嘘をついたり、約束を破ったりといった社会的信頼を損う行為について羞恥心が増すことが判りました。男女共、格好の悪い失態について若い人よりも敏感です。その理由は、これまで培ってきた人間関係を壊してしまう恐れがあるためです。高齢者になればなるほど、社会的信用や品性といったイメージを守ります。
自分の利益と一致しない人たちは、他人として位置づけて、利益を共有できる相手だけがパートナーになると、狭い世間になります。欧米人は良心に照らして自分の行動を抑制しますが、日本人は他者の目や顔色を気遣って自分を律します。
現代の日本社会は、伝統的な世間の崩壊と他人領域の拡大という様相です。職場でも隣は何する人ぞという“個職化”が進んでいます。公共空間での逸脱行為は個人の問題ではなく、社会と密接に関わる現象です。老若男女に見られる公徳心の欠如は、羞恥心が働かない心性が作動しています。無神経な高慢さは人としての羞恥心がないためです。

村井 徹

時事問題(35)依存性が強い方ですか 2011年10月07日 09:00

hito_b.jpg


―2つの行動特徴を探る―

現代社会では数多くの外部情報に翻弄されたり、他人の暗示にかかり易く、自分自身の判断による自己管理が難しくなっていることを当コラムNo.2で提起しました。また別のコラムにてわが国の対人関係の行動は「和」が重視され、他人の気持に敏感で他人に合わせようとする依存傾向があることを指摘しました。これらの問題は心理学からみれば“自主性と依存性”です。今回は、この2つの行動特徴を考察します。

欧米社会では自立性がよしとされ、依存性が高い人は受け身、無力な人というイメージが強くあります。一方、わが国では依存性が高く、1人で決められず周りの様子を伺う自信欠乏があります。これは対人関係上、他人が自分をどう思っているかの感受性も強く、他人に調子を合わせて群れる社会です。また権威に対する弱さがあり、“専門書にそう書いてある”“テレビや新聞でこう言っていた”“○○という意見が多数”といった理由で物ごとを選びます。自分で考えた結論よりも、権威者の意見や他人の考えで物ごとを決めます。一般に日本人は“普通”という言葉に抵抗なく反応して“せめて人並み”“普通の○○でありたい”と表現しますが、これも依存性でしょう。これらのことから努力や独力を怠り、年齢相応の社会的スキルが身に付かなくなる恐れもあり、誰かが助けてくれる誘惑にかられます。また企業でも“前例によれば”“上司の話によれば”“○○という方向に固まっているので”と間接表現が好んで多用され、“自分の意見は○○だ”という直接表現を避けます。従って、物ごとが決まるときは“なんとなくそうなった”“誰が決めたか”が曖昧になります。この空気のような依存性は群れて周囲の行動を伺い、互いに調子を合わせた行動になります。わが国は依存性を許容する社会であっても、近年の成果・実績主義の人事政策からみて、仕事のレベルに応じてある程度の自立性がないと克服できない事態があります。控え目で自己主張もなく、他人より劣った立場に甘んじて仕事をこなす没個性的な人として生きることは、淋しい感じがします。確かにバブル期前の伝統的な対人関係は、相手方がして欲しいことを的確に見抜いて対応すると、気がつく人と高く評価されました。つまり、気まずさが生じないよう気配りできる対人関係のスキルを重視しました。

どうして日本人は依存性の強い社会なのか。その理由は、思春期・青春期に他人に世話してもらえる子どものような立場でいた人が多かったためです。すなわち、子ども時代に自力で挑戦する機会を奪われて健全な能力が育っていません。大人になっても恐怖感や劣等感をもち自ら選択し、その結果責任を負うことに怖じ気ついてしまいます。当今気になることは、子どもは教えられないと自分の頭で考えないようです。“まだ習っていない”という依存性が強く、誰かに教わってそれを真似たり、参考にすることが習慣化して考える力が育ちません。まして受け身の姿勢で教われば、集中力、思考力や気力を総合的に身に付けるのは難しい限りです。
人には様々なタイプがいます。“教わって”伸びる人、“教わらずに自分で”伸びる人、また“教わってさらに自分で”伸びる人もいます。
“教えてもらおう”という「知的依存心」が身に付いてしまった人は、自力で考えることをしなくなります。このように“教える”ことによる最大のリスクは、教わる側が口を開けて待つひな鳥のような依存心を身に付けてしまうことです。What型教育は知識差を利用して“教える”、Why型教育は思考回路を刺激して“考えさせる”です。日本のビジネス界には“WhyなきWhat病”が蔓延しています。Whatとは、実際に起きている事象や目に見える状況そのものであり、Whyとは、そのための理由や真の原因、あるいは物ごとの本質といったものです。例えば、実態が変化して適しないのに“規則通り”に行動するしかできないマニュアル人間、取引先から言われた要求をそのまま聞くだけの御用聞き営業部員、以前やってみたが失敗したという理由で部下の提案を一蹴する上司、言われたことだけこなす気の利かない部下、メッセージのない資料や魂のこもっていないありふれた企画書等々、WhyなきWhat病の典型です。

自主性は、共感と温かみだけの家族では芽生えずらくなり、成人になっても親元で寄生的な生活を送るパラサイトの生き方では不可能です。このことは、当コラムNo.6で家族とは社会の縮図であることを指摘しました。
人間社会の伝統を紐解けば、親が先行先代の価値観を体現し、子どもが青年に達して先代世代のものに対立・修正を加えて受容していく大人社会の再生産でした。しかし今や大人が子どもの顔色を伺い、機嫌をとったり、若者世代にすり寄ったり、若者のマネに興じたりして調子を合わせた行動をとり、依存性の強い社会の再生産になっています。

それではどうすればいいのか。依存性と自立性を場に応じて程良くバランスさせる感覚をもつことでしょう。前者は他人に気配りしたり、自分が経験する範囲を狭く閉ざしたり、不快な現実から目をそむけますが、後者は他人と調子を合わせるよりも、自己責任をもって自分のことは自分で決めます。例えば、上司に指示された通りに仕事をすれば、叱られません。しかし、上司の指示を自分で再考し、知恵を出して仕事をすれば、自分らしい個性が育ち繰り返しにより、自立性が芽生えます。自分の責任で行動するためには、“なぜ”“どうすれば”と考える習慣を身に付けるのが第一歩です。
最近の研究によれば、依存性の強い人にはうつの度合も強くなると指摘されています。特に他人頼みの人は対人関係でストレスを感じ、自責が高まります。その改善として1人で何もできない場合、他人と物ごとを一緒にやる協力姿勢があれば、欠点を利点と捉え、自分の低い自己評価を見直して、自信を一歩づつつけていく解決法があります。
最後に強調しておきたいことは、社会に出ても自分のダメさを強調して他人から期待されたり、責任を引き受けたりすることを避ける若者が多くなっています。この風潮は、同質なものへの接触は好むものの、異質との接触は先細りとなり、気の合う同世代の人たちとしか交流できない怖さがあります。このことも自立性のなさと関連していることです。もう1つ付け加えれば、自分から何かをやるよりは、誰かが分かりやすい解決策を与えてくれるのを待つ依存的な状況も強まっています。
括れば、自立している人とは、独りで生きることではなく、適切な依存ができ、そのことを自覚している人です。

村井 徹